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​「森の座」
今月の草田男

「九月の草田男」

夜長し四十路かすかなすわりだこ (『来し方行方』)

 

 終戦時に草田男は「終戦の大詔を拝したる日、及びそれにつぐ日日、六句」という前書を附して〈烈日の光と涙降りそゝぐ〉〈切株に据し蘖に涙濺ぐ〉〈空手に拭ふ涙三日や暑気下し〉と痛哭の句を残している。さらにもう三句は〈戦争終りたゞ雷鳴の日なりけり〉〈陽が欲しや戦後まどかな月浴びつゝ〉と、そしてこの四十路の一句なのである。その敗戦の炎夏が過ぎようとし、ようように季節は秋へ傾きだした頃の草田男の感慨を示すこの三句を、金子兜太は痛烈に批判している。

 痛哭の気概などといえるのは前の三句のみであって、あとは急速に寛いだ風に「あっさり転じてゆく」というのである。「痛哭は「三日」間だったのか、などと皮肉の一つもいいたくなる」というのである。

「自然・人生・社会―此大存在の前に、私は虔ましく畏惶するの心根を保ちつゞけて来た。全体の一部であり、全体の一端であるにすぎない「自己」を全体の中に位せしめることによつて、肇めて自己の自己たる本質も分明となる。斯くしてのみ「自己」を全体の中に実現せしめるの方途も自から啓けてくる。これが私の唯一の信念であり、唯一の生きて行く道であった」。第一句集『長子』の跋でそう表明していた草田男ではないか。そのいうところの全体とはしかし、たったの三日で「新たな「全体」に身を置きかえることができ」るような全体だったのか。

 草田男コントラ兜太の対立のひとつの理由がここにある。大正八年生れの兜太はトラック島からの生還者である。しかし明治三十四年生れの草田男は前線戦闘の経験も徴兵体験も持ち合わせてはいないのである。明治の本物の時代という幼年来の記憶を依然保持していた草田男に対して、それこそそんな信仰は譬喩もろとも消え失せ、戦争に青春を奪われるしかなかった兜太の世代は、そんな歴史観を保持したままの全体観を受け容れることができる筈もないのである。

 兜太が批判する草田男の「受容的な全体観」とは、転向のごときことではもとよりない。そのような「百八十度の転換変身を、いとも安々と見事に演じ了せる姿」から「何ともいえない敗戦国民の悲哀を満喫せずにはいられなかった」(「このごろ思うこと」昭和44年)と吐露する明治人草田男の、その全体観を考えてみなければならない。(横澤放川)

「七月の草田男」 

「日の丸」が顔にまつはり真赤な夏  (『大虚鳥』)

 

 戦後も二十年近く経た昭和三十九年の作品である。強くこころを惹く句であるが、初見の頃からこの「まつはり」という措辞に気にかかるものがあった。裾がまつわるとか、この語にはつきまとう、鬱陶しくも離れずにいる、懸念の思いが頭にまつわって離れない、といった否定的な感情がそれこそまつわりついているからである。日の丸とは草田男にとってそういうものだとは到底思えないのにである。

 日の丸、あるいは国旗を詠った草田男作品を少し列挙してみよう。〈「日の丸」爽か新生日本の国際旗〉〈「日の丸」爽か緋眼の白馬勝にゆ〉は同じ昭和三十九年、オリムピック詠唱十一句のなかの、手放しで旗を振っているような昂揚の二句。〈日の丸に裏表なし冬朝日〉はそれから九年後、七十二歳の頃の句だ。これなども戦後の、いや戦後なおの草田男の国旗観を教えてくれる作品ではないだろうか。

 国旗で詠んだ句には三十五年、五十九歳の頃の〈国旗の玉の残光機影に早や冬灯〉といった戦時記憶をも思わせる句を始めとして〈初旅車窓たまの国旗も後々と〉〈小鳥の声々京都に国旗映ゆる日よ〉(六十七歳)〈一竿の国旗舞ふかに鶴の舞〉〈無人のに国旗や梅の芯真黄〉(六十九歳)などがある。この梅の芯の句の前には全集第5巻では〈明治の噴水声なき鶴唳一条に〉という句が置かれている。やはり〈明治生れの父のみ夏も魚好き〉(これも三十九年)と詠う明治人草田男の感慨なのである。

 まつわるという語はそんな日の丸に対して用いられているのである。次のような作品を見れば、この語の草田男にとっての肯定的な意味が知れる。〈まつはりし闇の蛾たゝずみ居れば去る〉(『火の島』三十六歳)〈門柱めぐり足にまつはり秋の蝶〉(六十七歳)〈花豌豆の柵にまつはり糸げむり〉(七十八歳)。まつわるという語は、草田男何歳になっても、慕わしげに身に絡まりくるものへの哀歓の表現なのである。この糸げむりの句など、そういう意味での絶妙の身体感覚を思わせる。

顔にまつはりとは、払いもならぬ擽られるような触感を、真赤という眼裏かけての色彩感覚とともに吐露しているのである。もとよりその裏には、戦前戦中戦後という歴史意識を包含しつつにである。(横澤放川)

「六月の草田男」

蛆一つ轢かれぬ渺たり渺たりな  (『時機』)

 

 この三月の俳人協会総会で、渡辺香根夫さんの『草田男深耕』が俳人協会評論賞として表彰された。無念なことに著者は詮衡決定の二日前に長逝なさったから、編集を担当した僕が受賞のことばを代理させていただいた。そのなかで草田男にあって金子兜太にない決定的な本質は深みの次元だということに話が及んだ。僕は兜太の自然体質に出たことばの分厚さを好むが、その兜太が季題宗だといって不思議がるところにこそ草田男の文学の本質がある。

これは草田男の文学の出発の動機ともなった斎藤茂吉の歌の体質と比較してもいえることのようだ。茂吉にもこの草田男の蛆一つにもどこか通う〈みづからの産卵せむと土を掘る虫のおこなひ微かなりとも〉(『小園』)といった虫の歌があるが、それでも〈わらじ虫たたみの上に出で来しに烟草のけむりかけて我居り〉〈うごき行く虫を殺してうそ寒く麦のはたけを横ぎりにけり〉(『赤光』)などを思えば、こんな小生物に向けた眼は山形金瓶の農家に生まれた茂吉の、そのままの体質から出たものだろう。そこからいのちの深みやその条件へと全霊で迫ってゆくといったものでは到底ない。きわめて人間くさいそのどんみりした、いわば現世的な言語体質にこそ茂吉の本領がある。兜太また然りだろう。

 宗教性ということは一種の自己否定とともに始まるといえる。草田男の教え子であり著名な哲学者だった由良君美がそのあたりの消息を鮮やかに表現してくれたことがある(『中村草田男読本』所収「草田男の風貌」)。草田男の「洋に相渉る発想」の句として、この蛆一つを採りあげ、その傍証にウイリアム・ブレイクの詩句を挙げてくれる。〈 The cut worm forgiveth the plough 〉即ち、ちょんぎられた蚯蚓は鋤をゆるす。

そして由良さんは、香根夫さんをもいたく喜ばすに違いない見事な評言を最後に附す。「草田男は、キリストを歌うことのできる、稀れな異教の俳匠である」と。渺たる存在からも深みの次元へのまなざしは開かれてゆくのである。(横澤放川)

「五月の草田男」

鶏鳴の多さよ夏の旅一歩   (『来し方行方』)

 これは集中「旅一歩」と章題が附された句群のうちの先頭の一句だ。そのうちには〈汗拭きしをばしづかに掻く百姓〉や〈新や農夫よく乾き〉などの佳句が含まれている。、扨てその土地の名はとなるとはっきりしないが、いづこかの田園であることだけは分かる。こうした佳句を生む旅の出立に際して草田男には、いわばその旅への期待感にこころ弾ませたこの鶏鳴のような第一句がいくつかある。逆にいえばそのこころ弾みがさながらウオーミングアップとなって、爾余の佳句を、こうした光景との出逢いを、呼びあげているのだとも思えるのである。こういう旅へのこころの整えと昂揚が詩にはいかに大切かが分かる気がする。この鶏鳴の句など、もう失われてしまったともいえる風物と記憶の時間を想起させて懐かしいかぎりだ。
 この昂揚からの出立を見事にみせてくれたのが、第一句集『長子』の帰郷二十八句の先頭を飾っている〈に乗りて帰郷の船迅し〉だろう。一句が『長子』一集の巻頭にあって、いわば燦たる象徴となっているとさえ思えるのである。『来し方行方』にはさらに富士見高原に赴いた「秋雲離々」の大作の先頭に〈今朝九月草樹みづから目覚め居て〉の爽涼そのものの一句が置かれる。「秋雲離々」はすべてがその爽涼感の敷衍のなかにあるといっていい。第五句集『銀河依然』には「指頭開花」と銘打った金沢行六十六句がある。その先頭句が〈虹の後さづけられたる旅へ発つ〉である。さらにこの昂揚はそれだけで収まることなく〈車窓金星一途なるものすずしけれ〉〈短夜の日本の幅を日本海へ〉とつづく。
 その推移が如実に感じられ始めた時間意識と、列車が彼処へ自身を運んでゆくこの空間意識との統一。いのちの統覚作業とでもいうか。草田男はそのようにして、これから待ち設けているはずのものどちへとこころを整え、こころを徐々に掻き立て始めているのである。矢立の初めこそはこころすべき。(横澤放川)
 

「四月の草田男」 

撞いては聴く腰折百姓春の鐘 (『大虚鳥』)

 

 昭和四十三年の五月初めに草田男は毛越寺での第七回芭蕉祭で講演をしている。六月号発表句に〈茂りて低きみちのくの松初桜〉〈みちのくの初花今にして紅く〉〈いまの世人撮し合ふとき雉子の声〉とあるのはこの平泉の景である。さらに毛越寺では〈黄桜の落花延年は男舞〉〈笛で呼び太鼓でおくり花の舞〉〈延年の舞観るや落花に咽びつつ〉〈落花切々延年の舞にあやからん〉と、やすらのいのちを祈る句をのこしている。その四句のあとに置かれているのが、この腰折の句である。いずれも立夏直前の黄金週の作品だろう。

 草田男は昭和三十七年、金子兜太とのいわゆる造型俳句論争ののち、重度の精神の衰弱のため長期入院を余儀なくされている。退院後に吐息のように詠まれた〈ラザロの感謝落花のに昼み〉は、その恢癒ということの喜びとも不思議とも知れない感情をまどろみというたゆたいの感覚で表明している。

 この感覚はその後も折につけ意識の表へと浮上してきたことが作品から知れる。昭和四十一年には〈とまれ更生こゝに仔馬と仔蜥蜴と〉と詠む。更生とは本復後の新生にほかならないが、その新生にも「とまれ」というたゆたうような但し書きがのせられている。さらには平泉行の年の三月号には〈春光や快癒者ものを撫で撫づる〉と、自身を包む存在世界の感触をしきりに確かめているのである。

 腰折百姓というのは字面のみからするならば、差別用語そのものである。刊行物として発表する場合には出版社が断り書きを附さなければならない作品が、草田男には幾つもある。〈真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道〉など正にそれに該当する句だ。しかし草田男におけるこうした用語は、一方的に他者を貶めるものではなくて、その他者を介して常にそれは己れ自身へと打ち帰ってくる痛切な響きを秘めている。

 それは一種の自虐ではあろうが、懸命な自己否定をとおしての、更生、新生への希いが投映されてのことだ。営々と畑を打っては曲りきった腰。その苦節こそがいのちのかえっての勝利でなければならない。撞いては確かめ聴く春の鐘のやすらの韻きがそれを証している。(横澤放川)

「三月の草田男」

 刻々と雉子歩むたゞ青の中  (『来し方行方』)

 

 昭和十八年、四十二歳の折の句だが、そして実に生動感を覚えさせる作品だと思うが、いささか気になる点がある。雉子は歳時記の分類に従えば春の季題である。おそらく繁殖期のあの雄鳥の精悍な鳴き声が、その目立たしさが、この分類の根拠なのだろう。実際この季節には人間さえ恐れずに草陰から威嚇の声ともに走り出てきたりもするのである。しかしただ青の中とはなんだろう。草木の生々たる繁茂のたけなわさを思わしめる描写ではないか。

 この句集では雉子を詠った句が四句つづけて掲載されている。書き出しておこう。〈雉子なくや今なほかたき足がため〉〈雉子叫び道に蹄のあと見るのみ〉〈手足ぬくく生くるはよろし雉子の声〉そして掲出した青の中である。このなかでは三句目の手足ぬくくが、一応暖冬から早春へ入りかけたかの季節を感じさせる内容だといえよう。それと並んでの青の中は、だから季節感などということでは爾余の句とは齟齬をきたしているとも思えるのである。

 そこから類推するならば、手足ぬくくも季節感ではなくて、安定した幸福感をいう比喩だと考えたほうがいい。実際これらの句はこの年の夏に蘆ノ湖でものされた十一句のうちの四句なのである。冒頭の〈玻璃一と重夏の山湖に押し臨む〉を見れば有無をいわさぬ事実だろう。草田男の作句のなんたるかが、その一端が垣間見えるようだ。

 〈鷹消えぬはるばると眼を戻すかな〉(『来し方行方』)は冬季ならぬ、九月一日富士見高原での作。〈蒲公英のかたさや海の日も一輪〉(『火の島』)は春ならぬ厳冬の九十九里での一句。草田男は出向いた先での嘱目とそれを囲繞する世界とを、いま経験しているそのままに、自己の生命と生き生きと呼応させながら描写しているのである。雉子が春で鷹がどうのということではない。草田男の詩的衝動はそんなところから始まるのではない。ものみなのいのちからだ。

歳時記があって、その季題分類があって、しかるのちに俳句があるのではない。この自然のいのちと作者のいのちの呼応があって詩が出現する。季題の分類だ季節分類だは、そのあとの二次的な文化現象、あさってのことだ。三月ならぬ草田男だが、ご愛嬌とさせていただきたい。(横澤放川)

「二月の草田男」

春の愚者奇妙な賢者の墓を訪ふ (『銀河依然』)

 

 「我居所より程遠からぬ三鷹町禅林寺内に、太宰治氏の新墓あるを訪ふ。三句」という前書を附す。草田男より八歳年下の太宰の死は昭和二十三年、この三句はその翌年の四十九の春の作。〈いくさよあるな麦生に金貨るとも〉〈浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」〉と戦後の虚脱の世相が詠まれた頃の作である。同時の爾余の二句は〈居しを忸怩と墓発つ鴉合歓の芽枝〉および〈南京豆墓前に噛み噛み未成年〉。共感的な眼とはとてもいえない。

 この賢愚の対比は、意味もあるまいが、ふと南国伊予の蜜柑と津軽の林檎を思わせる。あるいはドストエフスキーの『イディオット(白痴)』に描かれた無垢のムイシキンと無頼のロゴージンとの対比を。草田男にはインタビューでこの墓所を「ええ、あれはいい対照ですね。鉄の如き意志を持つ明治の本尊みたいな鷗外と太宰とが並んで」と語った断片記事(「武蔵野漫歩」)はあるが、ほかに太宰に積極的に言及した形跡はない。

あとは昭和二十六年の津軽行の折に、街道のとある角で成田千空に教えられて呟いたかの三句がある。〈坪林檎太宰の故郷この奥二里〉〈薊と小店太宰の故郷へ別れ道〉〈太宰の通ひ路稲田の遠さ雲の〉。さらに「川口爽郎氏――太宰、その作品『津軽』中に、岩木山の最もうるはしく見ゆる個所には、必ず凄艶の美女住む旨を誌せることを語る。二句」の前書を附した〈晩年とは何ぞや北の秋空瑠璃〉および〈風の凌霄ここのきれいな岩木山〉がある。晩年というのは早逝太宰の処女小説集の題名でもある。

 ニーチェはイエズスが余りに急ぎ死を熱望し過ぎたという。老年のなかには青年よりもより多くのこどもが棲まうという(『悲劇の誕生』)。ある対談で草田男は語る。「『よもだ』というのは、非常に松山の人にぴったりした、一種独特のものです。私なんかも、あるいは、その範疇に入るかもしれない。『よもだ』というのは、一応のものはわかっていて、見えているけれども、ヴァイタリティがそれほどには伴ってなくて、しかし諦めずにいつまででも粘っておる、というような気質です」(「近代俳句のメッカ」)。愚者イディオットよもだ草田男。  (横澤放川)

 

 

「一月の草田男」

卵黄を掻き解き掻き解く冬夕焼 (『美田』)

 

 入門書『新しい俳句の作り方』のなかで草田男は、子規が近代絵画論から採り入れた写生の態度と方法を、実に丁寧にほぐしながら述べてくれている。

旧派の宗匠俳諧のように「せまい頭の中で、いいかげんな作りごとを考え出して、いいかげんな俳句をでっち上げないで、すべて写生によって解決する。直接経験によって、自分に見えたり聞えたりしたとおり、自分で感じたとおりを、少しもズラさないで文字に写しとって俳句にすること――の必要を唱え、同時にどんどん実行してみせました。つまり――俳句を、せまい頭の中のくだらない理屈の世界から、再びひろい現実の、活き活きとした生活の場へ引き出したのです」。平明裡に写生をいい尽くした文章だろう。

 卵黄の句の自句自解(6巻391頁)では、黄色は「一日の終熄の平安な気持」だとする。「万事が質素であった故郷での小学生時代には、よく祖母から鶏卵一個だけを与えられて、ぬく飯の上に直接ぶっかけるか、汁を多くしてフワフワに煮るか、薄膜様に伸ばして焼いて食べるか、自由に料理するのが楽しみであった。長箸で小刻みに掻き解いても表面張力で決してこぼれ落ちないのが、子供心にも楽しかった」。

 掻き解き掻き解くとは、子規が小口から描いてゆけといったその写生そのものである。見えたり聞えたりする直接経験そのものである。その写生のなかから、卵黄の黄は夕焼の黄へと溶けゆき、祖母恋しとはいわずとも、懐かしい思い出とともにある現実の生活の場へと広がり始めるのである。

 〈黒雲から黒鮮やかに初燕〉の自解(366頁)においても、このさながらの写生の二重性とでもいうべき秘鑰が述べられている。戦後間もない一嵐来そうな吉祥寺駅頭。「戦争を凌いだ古巣へ軽快溌刺とした初燕が訪れてきたのだと確認された。漆黒の全姿の輝き。それは、時代と人心との真唯中へ、一種の打開の可能性のシンボルさながらのものが、矢文のように届けられたかのようであった」。

 さても写生とは平明な。されどその直接経験に驚かせる潜在経験の不可思議なちからよ。写生という自己探究よ。(横澤放川)

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