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​「森の座」
今月の草田男

「二月の草田男」 2025・2

 白魚やますらをながら朱の箸    (『大虚鳥』)

 

 草田男には白魚を詠んだ作品は二句しかない。もう一句は〈白魚汲乙女の白き膝の皿〉である。そしてこの朱の箸の方には自句自解が残されている。自解では芭蕉の名句〈あけぼのや白魚白きこと一寸〉に触れながら、白魚の魚としての可憐な性質を述べている。そうしてのち、故郷への追憶がかたられるのである。

 「郷里では附近の漁場から「ゴロ櫃(びつ)」を頭上に載せた売魚婦(おたた)がしばしば売りに来て、あの地では「シロイオ」と呼ばれていた。」(全集6)というのである。三歳ごろに移り住んだ松前町での記憶に始まる知識だろう。ごろ櫃というのは御用櫃とも書き頭に載せて行商に用いられる木桶のこと。あの大原女が仏花など載せている桶を思えばいい。松山にはごろびつ庵というような名前のうどん店があるが、釜揚げを入れた小桶などからくる店名なのかも知れない。なにか泥臭い名だが、御用櫃からの転訛だと知れば、やはり由来のあることばなのである。

 松前港には瀧姫神社という神様が鎮座ましましている。平安のころからの伝承だという。京から流刑になったという御多喜津姫がこの滝姫で、土地の人の親身な世話に報いるために、黒羽二重の紋付服の裾をからげ、櫃を頭に載せ魚や珍味を売り歩いたという。社前では土地の女性たちがそんな服装で桶を載せてのおたた雨乞い手踊りが行われてきたのだという。そんな滝姫伝統の行娼婦がおたたさんなのである。

 そういう故郷への思いを回顧裡に草田男は吐露する。「故郷へ帰った際に親戚で御馳走になり、私の気持を察してか、子供用の朱塗箸を添えて出して呉れた。白魚の色に箸の色が紅白に映えあって、真から清潔にうるわしく、真からうれしかったのである」。しろいお漁はいまでもあの帆掛舟でもって行われているのではないだろうか。白いご飯に塩茹でした白魚。それをかつてはお茶漬けにもしたのだという。ますらをという表現に並べてみれば、乙女の白き膝の皿というも、この真から清潔なうれしさの表現なのである。(横澤放川)

 

「一月の草田男」 2025・1

道ばたに旧正月の人立てる   (『長子』)S7・31歳

 

 第一句集収録のまことに初期の作品。『長子』は編年体ではなく四季別の配列だから後ろの方の新年の部に置かれているが、昭和七年作である。ホトトギス入門が昭和四年二月。それから満三年に達しようとする頃の、忠実な写生訓練をつづけていた修練期の産物だ。素十風の典型的な一句一章の句型を見せている。しかも平明な措辞によって無理なく詠じられている。こういうところから草田男は始まっているのである。

 初期作品にはいわば追懐句といった内容の句がいくつもある。たとえば〈みな袖を胸にかさねし花見かな〉は入門翌年の作品だが、これには「明治初年上野山花時の写真遺れるあり」という前書が附されている。草田男が明治初年の記憶などもっているはずもないが、松山の花時の記憶にはそんな昔の名残があってこそ、この句の動機となったのではないか。〈夕桜あの家この家に琴鳴りて〉(『長子』昭和九年)にこの懐旧についての恰好の自解が残されている。その一部を書き写しておこう。

 「一番町、二番町などという旧名の場所は、いわゆる士族町の俤がそのままに残存していて、土塀や壁でかこまれた各戸の奥深くで、つつましく暮らしている齢頃の娘達の居る家々からは、夕づく時刻に「御琴のおさらえ」の音が期せずして伝わってきた。⋯⋯今日のピアノの音に丁度匹敵するようなありように於て」(全集第六巻398頁)

 つまり懐旧とか追懐というのは失われてゆく風俗への懐かしみだが、それは猥雑さを断った端正な生活への憧憬とひとつの感情なのだ。通常は懐古趣味と呼ばれて嫌われる情趣を、なんの屈託もなく草田男は表明している。道ばたというのも現代の舗装された、土と泥とを断って生活の利便に供されている道路ではない。戸口からこどもが駆け出てくるような、だからどこでも住民が早朝に出て来ては掃き清めているような、いうなら熟された土の道に違いない。

 そんな門の外に旧正月の閑暇を得た人が佇んでいる。テレビやら、ましてスマートフォンなどという疑似領域なぞ終ぞなかった時代の、端正な生活の一光景なのだ。溝川をただ見つめるも、枯柳に手触れるも、そこには無意味の意味が端整にあったのだ。この旧正月の句は昭和七年の実景からだろうが、旧正月という季節感そのもののうちにさらに古い明治という時代への懐旧の念が含まれているのだといえそうである。(横澤放川)

「十二月の草田男」 2024・12

 神の凧オリオン年の尾の空に (『萬緑』) 

 

 この神とはなにをイメージしてのことなのだろう。そう考えると同時に思い起こすのは同じく神のといういわば形容語をもつ〈寒星や神の算盤ただひそか〉(『銀河依然』昭和23年・47歳)である。かつて香西照雄、岡田海市両氏と酌みあっていたとき、この句は神主がお賽銭の勘定をする場を目撃してなどという解釈があるぞ、いや先生が嘘かまことか一度そういったとかなかったとか、と苦笑しあったことがある。

 しかしこれには本人の自誦自解の録音が残されている。これは数十年来の尊敬する知己を喪って、それからのちのあるとき海辺に近いところに泊めてもらったことがある。その日の夜中に庭に出て仰いだ「一等星から二等星、三等星、その他糠星なぞという世間で言われているような小さな星屑まで」の星空に触発されて詠んだものだというのである。そのとき「私は心象、心の中の心に浮かぶすがたとして算盤という言葉がでてきたんです」。人間の寿命、宿命は「神が決める厳かな神の法則、そういう神、神の意志」のもとにある。「寒い冬の真最中の空に星が大きな調和相を作って、しかも冷徹にこの世の中を動かしている」というのである。そのちからには「すべてをお任せしきらなければならない」。

 昭和二十一年九月、草田男は生涯の兄事の対象だった伊丹万作を喪っている。その翌年の夏には千葉夷隅郡の大原在の関梅春に呼ばれて、この外房の浜辺に赴いている。さらにその翌年、つまりこの算盤の句が詠まれた昭和二十三年の一月に、ふたたび梅春宅を訪れているのである。想像するに、算盤はこのときの万作慰霊の思いを、その自身の嘆かいを、ただただひそかと鎮めんとしているのだろう。草田男の天衣無縫の措辞力が読者によっては諧謔の感を催させるのかも知れないが、これはそんな落し噺では決してないのである。

 草田男はこの冬の星座オリオンが、自身の凛冽の精神に添うものとして、好みだったようだ。合計十三句を数える。〈オリオンと店の林檎が帰路の栄(はえ)〉(『長子』昭和10年・34歳)〈枯枝も相組めオリオン正しきに〉(『来し方行方』昭和21年45歳)〈電柱の感触オリオンの別れ近し〉(『美田』昭和30年54歳)等々。冬の友オリオンと呼びかける句もある。

 神の凧オリオンは昭和十四年、三十八歳の作。まだ万作にまつわる傷心を含まぬ時代のややに弾みごころを感じさせる作品だ。それにしても、ものを見つめる眼がその活発な知力意力とともに生み出す措辞の卓抜さよ。あの長方形の半ばを少し括れさせたような星座の姿を凧とみる。さらにはそれが神の印幡のような凧だという、啞然とさせるような世界把握のちから。このお任せしきらなければならない神は、洋の東西の宗教観などを云々するよりも、そうだ芭蕉がそれに従いといったあの造化のことだと思えばいい。(横澤放川)

 

「十一月の草田男」 2024・11

あたゝかき十一月もすみにけり   (『長子』)

 

 うぶうぶしい初期のまどろみのなかにいた頃の句である。丸ビルに虚子を訪ねて本格的な俳句修練の始まったのが昭和四年、この句はそれからほぼ二年後の昭和六年の作品。『長子』および『火の島』から選抜した作品とその後の作品をとりまとめた第三句集『萬緑』にも、この句は再録されている。

 この句にはなるほどと思わせる自句自解が残されている。このあたたかさの感覚を自身解題してくれているのである。「四国以南の地では徹底的な秋晴れが何日間もつづくのであって、そのことは関東以北の地域の人々には想像もつかない」(全集6巻)というのである。そうしたことからは故郷追懐の句とも考えられるが、そう解釈するよりも、松山に似た日和がつづいたなあといった感慨とすべきかと思う。    

 草田男はこのあとホトトギスの精鋭として、川端茅舎、松本たかし等と並び称せられることになるのだが、この二人はもうこの時期には課題句選者などもつとめて、誌上に先んじて地歩を占めている。その松本たかしはこの季節を、いささか高雅に〈玉の如き小春日和を授かりぬ〉と詠む。病弱ゆえに能役者の道を断たれたひとであるにもかかわらず、これはむしろ清潔な楽天ぶりとでもいうべきか。そのたかし、草田男とはいささか異なり、川端茅舎には、こんなのほほんとあたたかな十一月、小春の日和を詠んだ句はないのではないか。〈しぐるるや目鼻もわかず火吹竹〉。池上本門寺に拠って、その限定された環境のなかで可哀そうに命終を迎えなければならなかった茅舎は、それこそ露の茅舎は、むしろウエットな時雨がこころに叶うのである。

 草田男には〈妹の嫁ぎて四月永かりき〉といった、等質の時間感覚、季節体感といえる句もあった。ひとは高齢になるとそんな平明な微温の句を好むようになり、また自身作ろうともするようだ。しかしこのあたたかき十一月は、そのような一種の諦念の産物とはおよそ違うものだ。そういう自意識を帯びない青春のまどろみそのものなのである。このものやわらかな時間感覚は神経の衰弱の対極にある。作句がもたらす緊張からのこころよき弛緩。

 そういえば草田男先生も讃えた細見綾子にも、ひとつの挫折を怺えながらの吐息のような〈峠見ゆ十一月のむなしさに〉という戦後すぐの頃の句があった。平成になってからも〈静かなる十一月は好きな月〉と詠んだひとだ。ことに草田男につながるというのではないけれども、十一月というこころの季節。それぞれの十一月。         (横澤放川)

 

「十月の草田男」 2024・10

 逝きたるなれ色鳥の首は動きづめ   (『大虚鳥』)

 

 草田男夫人直子さんは昭和五十二年十一月、萬緑の関西地区合同句会の折に、高野山僧坊で倒れられ、高野山病院から和歌山市立病院に移送されたものの、その地で逝去なさった。このことが草田男の詩の魂にとってもどれほどの、いわば致命的な衝撃であったことか。

 夫人を詠んだ作品はその後、翌年の萬緑4月号に〈妻に倣ひて「天なる父」の名呼びて朱夏〉が漸く掲載されるが、見てのとおりの回想句あるいは旧作だろう。この頃の掲載作品はその数がとみに減り始め、従来草田男にはあまり見られなかった旧作の焼き直しかと思われる句が散見されるようになる。3月号の〈青胡桃山の子泣声磊々たり〉が9月号では〈山の子の泣声磊落青胡桃〉と改作され、前年の〈飛燕の下空に書きて文字思ひ出しぬ〉が10月号では〈飛燕の下空に文字書き思ひ出しぬ〉と一応安定した句型となる。しかし12月号の〈水鳥暮るる杭にその数紛れつつ〉が翌五十四年の2月号の〈水鳥暮るる杭(くひぜ)の数の夕まぎれ〉となると、私見ではむしろ改悪かとも思われないではないのである。

 そうしたなかで五十三年の5月号に、他の作品とは*印で区切って末尾に置かれたのが、この色鳥の一句なのである。同時の〈をみなの魂(たま)たかく召されつ聖母の月〉とともに初めて夫人の逝去に触れた作品だといっていい。その後は朝日新聞等の依頼に応じた年頭作品として、たとえば五十四年の〈己(おの)が上(へ)ひたに忘るる吾妻破魔矢受く〉、五十六年の〈年頭のおけら火廻しぬ妻朗らに〉、あるいは来日中の世界的ピアニスト・ケンプに認められた妻女を想起しての〈妻の栄事(はえごと)春夜長女と遠く偲び〉などがあるが、すべて現在ただいまを詠んだものではない。回想句なのである。これらを追慕句の最後として、12月号から最終の五十八年9月号まで、毎月の発表句は3句ほどに細ってゆく。僕は最晩年の発表句は編集責任の北野民夫か香西照雄が草田男の旧作を句帳から拾いあげたものではないかと、当時そんな想像をしていたものだ。夫人に逝かれてはいやこそ細りほそりゆく草田男なのである。

 だからこの最晩年の時期の夫人なき現在を吐露した作品は、余の作品とはアステリスクで区別されて掲載されているのである。そうした区切られた切実な作品としては、五十三年10月号に〈めぐりあひやその虹七色(なないろ)七代(ななよ)まで〉がある。そうして五十四年3月号の〈襖にもたれ障子叩きて故人呼ぶ〉を草田男の数ある名高い愛妻俳句の、なんとも切ない絶唱としておきたい。

 ヨハネ・マリア・ヴィアンネ中村清一郎はいまマリア・セシリア中村直子に倣って、五日市カトリック霊園に七代の虹とともに眠りに就いている。(横澤放川)              

 

「九月の草田男」 2024・9

親と仔のけじめはや無し帰燕の空​   (『大虚鳥』)

 

 これはおそらく昭和43年、六十七歳の秋の作品だが、この句のけじめということばは、長幼のけじめなどという慣習の意味とはいささか異なるところがある。さしあたって先行する次のような句はそうした道徳慣習上の判断に共通するような意味で使われている。つまり昭和13年の〈濤おらぶ夏草藪とけじめなし〉(『美田』)あるいは昭和31年の〈春近し無事とはけじめけむらふこと〉(『美田』)。前句は草だ藪だはない、ひっくるめて区別の要もないというのだ。さらに春近しの句は、こころざしもなにもなし崩しの、狎れあいの風潮を問いただしているかに読める。
 このけじめのしかし、もうひとつの、というよりその意味の深度を伝えてくれるもうひとつの作品がる。草田男は自作の作り直しといったことを殆どしない作家だが、この掲出句にはその例外といっていい、かなり内容の共通した先行句があるのである。昭和38年、六十二歳の夏、草田男は駒場の東京大学キャンパスを訪ねて七句を残している(全集第5巻)。それらの句の前書を記しておこう。「休暇に入りし時期なば、三女弓子の通学なしつつある駒場東大教養学部内部を、はじめて単身、逍遙す」。
 七句中には〈父の下駄に旱砂利鳴るふかき音〉〈古松の松籟父にしたしや夏木立〉そして〈塔の時計七月の陽の何倍ぞ〉といった句がつづく。駒場は戦後すぐまで大学予科あつかいの旧制第一高等学校の校地だったところだ。松山から帝国大学に進んだ草田男とこの一高本館の時計塔はかかわりがない。だからはじめて逍遙すなのが、若き日に本郷の時計塔を〈校塔に鳩多き日や卒業す〉(『長子』)と詠んだ記憶は、この駒場で鮮やかに蘇っていたことだろう。そしてこれらの句に並んでもうひとつの、燕たちを詠んだ先行句というべき一句が置かれているのである。〈群燕もはや親子のけじめ著からず〉である。
 親燕と仔燕、父と三女。吾子はいま父が辿った道に追いついて飛翔しようとしている。父が願うのは父が父自身のこころざしのもとに道を踏みきたったように、その子がその子自身のこころざしのもとに飛翔してくれることだ。けじめ無しとはただに同然ということではなくて、次世代というべきものへの深い祝福の思いなのである。そういう希念の帰燕の空のはるけさなのである。
 いい機会だ。因みに草田男精神を以心伝心で受けている一作者がかつて詠んだ阿吽の帰燕作品をここに添えておこう。
〈高々とすでに帰燕のこころざし 北島大果〉。草田男拈華微笑の一句だろう。 (横澤放川)

「八月の草田男」 2024・8

​川清水わが紋どころ酢漿草咲く     (『大虚鳥』) 

 昭和三十八年八月、松山で開催された萬緑全国大会の折に草田男は、市中の南端を流れる中の川を上流まで辿って六句を残している。〈柱時計の音落ち流る川清水〉〈そそぐほど手の平若し川清水〉〈低青空海へ二里ゆく町清水〉〈路次を犬は一と走せめぐり川清水〉〈川清水捨石臼に白沙寄る〉そして締め括りが掲出の酢漿草の一句だ。

 時を刻む柱時計、海郷に育った記憶、路次を嬉々として走せもした幼年、遠い日の生活のあとを想わせる石臼。どれもどれもこれらの清水はこころの原郷というべき寧らぎと喜びの産物なのである。道端に小さな黄花を掲げて生えるかたばみ。しかし夕べにはつつましくもすべての葉を閉じる可憐な草だ。その葉のハート形の端正さと、おそらくは地を摑んで離さないしぶとさを尊び、長曾我部などの家紋となっているのである。

 泉を好み、清水を喜ぶ草田男の水に対する感覚の底には、ここでも幼年の原型的な記憶が介在しているようである。「指頭開花」と題した昭和二十三年の金沢行六十六句のなかにもすでにその気息が覚えられるこころ弾みの句がある。〈土間足駄かりかりひびき井戸清水〉〈指にひびく未だ揺水の井戸清水〉。

しかしながらこの一連の中の〈故郷めく町山水めきし井戸清水〉や〈ほそやかな洲なども置きて溝清水〉といった追懐とひとつのこころを、かつて金子兜太は沢木欣一の「風」誌上で腐したことがある。草田男は山水という語が出てくる徳田秋聲の小説など思い出しながら「どっと疲れを出し、その疲労感のやるせないような擽りに身を委せてしまふ」というのである。「中間階級が全く中間階級らしくしている世界」にトラック島から復員して日の浅い兜太は耐えられないのである。草田男の作品の溢れんばかりの生命感を知る兜太なればこそだ。

 しかし兜太さんよ、いいではないか。掲句の前年の昭和三十七年十一月、草田男は松山での俳文学会総会で講演した際に、厦門から帰国後母と住んだ松前町を訪ねている。折から秋祭だったという。そしてこの折にも中の川で〈流るゝ秋糸で曳く舟烏賊の甲〉と詠み、松前町の故宅のほとりでは〈釘の出し路次々々抜けつ浜祭〉〈咽喉に障りし鰻の毛骨故郷の秋〉と昔日の俤を追っているのである。中間階級のただの自得ではない。幼年の原型的な記憶が紡ぎ出す瑞々しい郷愁のこころなのである。 (横澤放川)

「七月の草田男」 2024・7

義理人情定斎鳴る荷の紋所  (『萬緑』)

 小抽斗を重ねた定斎箱の実物が下町資料館に保存されている。その縦長のいわば一対の箪笥の側面には螺鈿で装飾された定斎薬という大きな文字が読める。その文字の上部に丸に囲った紋所がこれも螺鈿で象嵌されている。定斎屋は江戸期からひきつがれた物売りのひとつである。天秤棒でこの一対の箱を担ぎ、袢纏に黒パッチ、地下足袋姿で売り歩く。薬抽斗の鐶がゆれてカチャカタと鳴る。その音が客を呼ぶことになるのだとか。

 明人の沈惟敬が霊薬の処方を秀吉に伝えたのが定斎薬の由来という。それを賜った堺の薬種商村田定斎がつくりだした煎じ薬が、その後大津などで定斎和中散として評判に。関西ではじょさいやとか、ぜさいやとも呼ぶ。江戸ではじょうさいやと呼び習わしてきたようだ。夏負けや食あたりの煎じ薬だから、定斎屋が売り歩くのも夏場に限られる。

 草田男のこの義理人情の句と同時の昭和十五年の作に〈鷗来てポプラめぐれど定斎屋〉という奇妙な句があるが、その二十年後、昭和三十五年にも〈定斎屋鎧戸威儀の西洋館〉〈丁々と一と日の幕切れ定斎屋〉(ともに全集第4巻)の二句が見える。洋化され変りゆく風俗とさながらの江戸風俗とが渾然と詠みこまれているといっていい。これらの句をもって定斎屋は巷から消え果て、富山の薬売りにとってかわられてゆくのである。

 〈鏡花忌や駅赤帽の銀煙管〉(『大虚鳥』)あるいは〈春光やもののはじめの日本橋〉(『時機』)〈うじやじやけた人情両断杜鵑〉(第4巻)などからも感じられる江戸文化明治文化ともいえるものへの郷愁。日本橋は水谷八重子の鏡花「日本橋」公演に依頼された詠草。杜鵑はおそらく伊藤大輔シナリオの「宮本武蔵」興行への詠草。こうした新派劇への関心も定斎箱の鳴る音に義理人情を思い起こす時代趣味とひとつながりのものだろう。腹痛に悩んでいた永井荷風などの随筆にも「定斎の箱を担ふもの千金丹を売るもの」といったくだりがある(「巷の声」)。

 義理人情だけで人間の宿題が済まないことは百も承知の草田男だが、ときにはその失われゆく風俗のなかに溺れてもみたい郷愁が湧き出るのだ。定斎鳴る荷とはその風俗そのものの鐶の音だ。紋所とはいつまでも消えゆかせたくない、したたかにあったはずの生活風俗の象徴なのだ。(横澤放川)  

                                    「六月の草田男」 2024・6

夜の蟻迷へるものは弧を描く    (『来し方行方』)

 

 芥川賞作家の高井有一は成蹊学園の中等、高等学校の六年間を、ことに高等部では文芸部の活動をとおして草田男の指導を受けてきた教え子である。当時彼らが草田男につけた綽名はインディアン酋長。草田男が構内を飄々と歩く姿は、生徒たちの眼には蓬髪の異形の人と映ったようである。その高井がいわば初めて草田男を発見したのは、高校卒業間際にたまたま読んだ「尻尾を振る武士」だったという。日野草城のミヤコ・ホテル連作を糾弾した昭和十一年「新潮」七月号の文章である。

 「恩愛のたらちねの膝許をはなれて、無常迅速の此の世に、ただ一人の人間を信ずればこそ、たゆたひつつも、たゆたひなく未知の世界へ踏み入らうとする可憐の乙女の姿を衆目の前にさらさうと試みなければならないのだらうか」。この一節が、普段の教師としての風貌からは想像もつかない凛然かつ愛憫に満ちた文章が、この高校生の草田男観を一変させたのである。

 だから高井はこの貴重な経験をこう告白する。「それ以来私は、先生の眉間あたりに時折現れる縦皺を怖れるやうになつた。それは不機嫌の印では決してなかつたが、先生がまた厳しく物を考へてゐるに違ひないといふ想像が、うかうかと時間を過しがちな私を怖れさせたのである」(「俳句」臨時増刊「中村草田男読本」所収「風景の中に」)。

 高井の後年の小説『夜の蟻』は文字どおりこの草田男句を、巻首を飾る頌句として掲げているのである。この小説は定年後の無聊を、もとの勤め先に近い日比谷公園などに意味もなく出向いては、自宅のある堀切菖蒲園へと帰りして消閑するのみの男の話だ。戦中派としての高井の、目的定かならぬ戦後意識を描いた私小説というに近い。その意識のなかで高井はその自身を、先生の句にあるあの夜の蟻のようなものだと想い起しているのだろう。

だからうかうかと時を過ごしがちな自身に思い当たるつど、先生の眉間の縦皺をまた想い起すのだ。「かつて先生は『私は二百年生きようと思ふ』と言はれた。それくらゐの長い見通しを立てて偉大な完成を目ざさなければ、意義ある仕事はできないといふ意味を持つた言葉であつた。さうした言葉に、私は鞭打たれるやうに感じる」。この一句吾人もまた天の笞(しもと)と感ずべし(横澤放川) 

                                 

「五月の草田男」 2024・5

夏来迎ふ白馬(はくば)四蹄を寄せ佇ちに     (『大虚鳥』) 

 

 草田男はなにか無性に白馬が好きなようだ。数えてみると二十句ほどこの気高さといのちの力動感の象徴ともいえる動物を詠んでは楽しんでいる。ことに昭和36年、六十歳以降に充実した句がある。〈白馬の眼繞る癇脈雪の富士〉(『時機』)などはその代表的な佳句だろう。雪富士のその雪襞を形容するに驚くべき比喩をもってしている。ただの譬喩というより、おそらくは避暑先での、浅間牧場などでの実経験に基づいた感性がここに働いているに違いない。〈白馬は小傷も著し閑古鳥〉〈白馬こそ二重瞼や露層々〉も同じ年の作品だ。

 その避暑先での産物と思しいのが六十三歳の年の一連の作品である。〈白馬すずし腰ゆ盛(も)り出て 白総尾〉〈白馬すずし葉先まだ鋭(と)き 秣(かひば)なる〉〈白馬すずし振り尾鳴り次ぐササラ・ササラ〉。 掲出した夏来迎ふもそのうちの一句である。どの句もいのちのすずしさそのものと、無心に無辜に嬉戯しあっているかの感がある。ただしこの数年の作品の間には、六十一歳の頃の句〈八月白馬(はくば)の傍(そば)で自問す「死にたきや」〉がある。

 この自問ということばは直ちにニーチェを想起させる。トリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒し、その後、死までの五年間を精神に異常をきたしたままにいたニーチェだ。この広場で御者に鞭うたれていた馬を悲しんでその頸を抱いて泪した、それが悲劇の発端だったという逸話が、まことかどうか残っている。それを思わせる自問の一句は、草田男としては金子兜太との造型俳句論争があった年の、そして神経を痛めて療養せざるを得なかった数か月を経て快癒したのちの呟きなのだ。この自問も白馬が、その無辜が発端となっているのである。この虚無と意味とのいわばアンビバレンツのなかで、これらすべての句は読み込まれてゆかなければなるまい。

 来迎ふというのは萬葉以来のことばだ。萬葉では来向ふと表記する。たとえば巻一・四八では「時者来向」(ときはきむかふ)と表記する自動詞なのである。迎という漢字は他動詞に宛てられる。たとえば巻二・八五では「迎加将行」(むかへかゆかむ)と他動詞として用いられている。それではこの草田男の表記は誤植か誤用なのか。いや、四蹄を寄せ佇ちに白馬が夏を待ち設けていると読めるではないか。それが正しい読みに違いないではないか。漢語の他動詞である「来迎」、つまり到来を迎えるという意味の語を読み下した、草田男らしい無性に嬉しい生命感の創語としたい。(横澤放川)

「四月の草田男」 2024・4

 しめりし沓に足指緊まり復活祭      (『萬緑季語選』・集外句)

 

 この句、『萬緑季語選』中に自解とともに載っているのだけれど、句集には未収録である。萬緑誌にあたってみたことがあるが、制作年度は分からず仕舞いだった。第八句集『時機』に〈青き踏む愛さるる身の緊め〉を選出したことが句集外となった理由とも思われる。されど捨てがたい句だ。『季題別草田男全句』には集外句として収録した。その草田男の自句自解を書き写しておこう。

 〈私自身はカトリック信者ではないが、他の家族達が総てそうなので、クリスマス以外にも復活祭の折には、私も彼等に同伴して礼拝堂中の一席に身を置く。この年は丁度長雨中のある一日であった。「靴」でなく「沓」の字を用いたのは、使徒等の穿いているサンダルを脱がせてキリスト自身が受難の迫った頃、自ら彼等の足を洗ってやったことなどを静かに想起したからである。フラアンゼリコ等の筆になる古画の中では、復活したキリストは跣足で直かに大地と草を踏んで歩んでいるのである〉

 土を踏み草を踏む。この手ざわり足ざわりの感覚は、復活祭の都度、草田男の身体感覚に蘇ってくるもののごとくだ。〈砂利踏み土踏み草に副ひゆく復活祭〉〈礫々踏んで復活祭の卵運ぶ〉〈手足拭き天日篤し復活祭〉(いずれも全集第五巻)などみなこの感覚に始まる句だ。ひいては〈多産の夏足指さへも打震ふ〉(『大虚鳥』)といった歓びのなかにも、この感覚は躍動している。

 イエズスに洗われているような、そんな祝別されたかのような、予めゆるされたかのような無垢の生命感覚。イエズス自身はその貢ぎにその両手両足に鉄釘を打ち込まれることとなるのだけれど。受難と復活の栄光。その明暗相反する命の条件のあわいで、ひたすらに無垢のゆるされへとこころを向けようとしている草田男がここにいる。手も足指もここではさながらに、ゆるされを感じとる魂の感官である。                          (横澤放川)

「三月の草田男」 2024・3

初燕店妻(みせつま)閾(しきゐ)大切に       (『大虚鳥』)

 

 雲雀は草田男の精神の象徴のような感がある歓びと希いそのもののような鳥だ。芸術選奨受賞のメルヘン集『風船の使者』に「一雲雀」という短篇が収録されている。山本健吉はじめ文学研究者芳賀徹、哲学者由良君美などが宮澤賢治以来と評して讃えた。それだけの思想の深みを、つまり信仰問題にまで至る深々とした魂の希いを表明した、草田男の本髄を窺わせる作品なのである。

 悪童にみつかり三羽の雛のいのちを失った、しかもみずからも眼をつぶされた親雲雀を、盲目の按摩佐吉が救い、籠に飼う。しかし魂を運ぶ天職を果たさなければという雲雀の哀願の声を聞き取った佐吉は、野に出て雲雀を天に開放してやる。その翔けのぼりつつ懸命に囀る雲雀の声が佐吉には聞こえてくる。雲雀の魂は「しあはせな一つところに落ちあふ」ことはないのですかという、雲雀の嘆きに天の声が問い返す。「人間の魂や雲雀の魂が最後におちつく先をお前は知りたいと言ふのか」。雲雀の言葉がそれに答える。「いゝえ。子供達の魂さへおちつくべき所におちつけるのならば、私の願ひは足りるのです」。

 これを受けた天の使いの言葉が「殆ど叱咤するほどに高らかに響き渡」る。「その言葉だ。たれでもいゝ、その言葉をハッキリと言ひ切れたとき、その者に於ては、一切が成就するのだ」。

 このメルヘンにおいては救済が無私の愛としての奉仕とともに願われている。句作没頭に終始した草田男は、奉仕を忘れがちであったという悔いに歳ともに思い至っている。「『創造』と『奉仕』との、そのどちらか一方を欠如させた場合には、かならずといっていいくらいに人間は頽廃、堕落する」(全集11巻・「家庭本位」)。〈初雲雀晴を見越して深井掘る〉〈神の右も左も無しや揚雲雀〉(『大虚鳥』)〈己を突如見つけし声に揚雲雀〉(『美田』)。草田男の雲雀を詠んだ作品のなかにはいつも、いわばカトリシズムに通うというべき魂の模索がつづけられている。

 掲句に触れる余裕がなくなった。閾大切にもささやかな、忘られがちな、無私の愛の始まりなのだ。(横澤放川)

 

「二月の草田男」 2024・2

 雪中梅一切忘じ一切見ゆ  (『母郷行』)

 

 この句を香西照雄は〈我欲のため他と争うのではなく、自分の我欲そのものとたたかい、また世路の困苦とたたかう勇者の潔白な姿が雪中梅で暗示されている〉と評した(俳句シリーズ11・人と作品『中村草田男』)。ヒューマニズムを標榜する香西のいかにも社会派らしい解釈だ。しかしこの句は昭和二十八年に亡母の松山への納骨を果たしたその翌年の作品だ。〈雪中梅この旅白くなりにけり〉と並べられて、母郷行のこころいまだ揺曳する時期の一句なのである。

 雪中梅の句はこれらを含めて八句を数えることができるが、九年後の昭和三十八年には〈現前せり一心同体「雪中梅」〉と詠み、その翌年には〈雪中梅空でもつるる晴雀〉と詠んでいる。雪中梅は雪と梅という相反して本来融合するはずもない両者が眼前に融合している驚きに出たことばだ。だからそれを一心同体と、なにかこころ擽られるような思いで打ち囃しているにちがいないのである。そこからの晴雀の哀歓をもつるると、やるせない思慕と欣喜ひとくるみの表現にもたらしているのではないか。季語はなにかを暗示寓喩するために援用されるようなものでは断じてない。

 成田千空の〈滾々と雪ふる夜空紅きざす〉という深い沈潜度を見せる詠唱に、草田男は共感の評言を残している。〈「滾々と」〉は、とめどなく湧きつづける血汐をさえ連想させる形容語である。白昼の一途にしきり降る雪であるならば、その明度ゆえに見えざる空へ想念を誘われることによって「蒼きざす」を言語的に体験さすかもしれないが、余りにも淵源不明の闇、その中からそれを払いさるように「滾々と」降りつづける雪の白さは、相反のものを連想さすよりも、止揚された不可思議の淵源として相対以上の「紅」の色の存在へまで作者を誘わずには措かなかったのであろう〉(「萬緑」四季開花・昭和45年4月)。

 この感嘆すべき評言はそのままに一切忘じ一切見ゆに附してやることができるだろう。一切皆苦とも思える父母の記憶。その一切を払いさるように降りつづける雪の真白さ。そこからかえって湧きあがる梅のおもかげ。哀歓ひとつに融合した驚き、不可思議の淵源を想う『母郷行』の一句だ。(横澤放川)

                                                   「一月の草田男」 2024・1

冬木根を深くも掘りぬ水の湧く   (『来し方行方』)

 ドイツ浪漫派の詩人ヘルダーリンは、詩人を天と地のあわいに住むと譬えた。この自意識の伝統のなかで反動ドイツを批判したハイネなどは森鷗外によって本邦にも紹介され、日本浪漫派を生み出す契機ともなっているのである。天と地、真の故郷といまの家郷、理想と現実、生の喜びと死の畏怖、意味と無意味。こうした、ときには絶対の相克と見える矛盾を詩人は生きる。この浪漫主義的イロニーと等質の二重性というべきものが草田男の魂の底には息づいている。
ただし浪漫派が社会批評に尖鋭化していったのに対して、草田男はイロニーを内部深くに抱えながら、俳句という造化の門をとおしてその二重性を探究していったのだといえる。造化という存在一般へとあいわたる極めて特殊なメディウムとして俳句を発見している。俳句はそのような意味での天地のあわいなのである。
 しかし草田男作品を鑑賞するとき、僕らはよくよく注意しなければならない。この冬木根の句はそうした二重性を表現する目的の寓意詩なのではない。草田男は歩いて歩いてこうした光景に遭遇しているのである。そうして内部のなにかと呼びあうものに感じ至った驚きが、深くもという、湧くという描写を生む。
冬木という生の蕭条たる枯れ枯れの季節。その対極に願われ喜ばれるべき水という生の本質。ひとの掘るという行為がその両者を媒介したとき、この水はすでに人間の形而上的な真実を覚えさせるものとなる。俳句という思想詩は寓意詩などではない。愕きが存在の深い二重性を存在物から打ちかえって見出させているのである。
これは昭和十七年の作品。それから二十一年後、六十二歳となった草田男には〈初雲雀晴れを見越して深井掘る〉(『大虚鳥』)という句もある。思想の深まりは人間営為の一方に、天真の昇天志向者ひばりを発見している。その両者の軽やかな呼応が一種のコメディアを感じさせもする。その人間観がさながら神曲を、神聖喜劇を思わせるのである。(横澤放川)
 

「十二月の草田男」 2023・12

冬山幾(いく)重(へ)此の世が二(ふた)重(へ)に見ゆる性(さが)    (『美田』)

 

 昭和三十二年、五十六歳の折のこの句を、その六年後にそのまま解説してくれたようなエッセイがある。朝日新聞掲載の「俳句実習と私」である。〈自分自身の素質について云々するのはおこがましいが、ウィリアム・ブレイクが「私の目にはこの世が五重にも六重にも複合されたものとして映る。一番単純に映る場合でも常に二重の世界である」といっているが、ものごころついて以来、私にとっては、私自身の存在をも含めて「この世」という存在の総体が常に「はかりしれない」不可思議な性質のものとして迫ってきていた。〉

 この二重性を草田男は現象と本体界というソクラテス以来の世界の二重性に共通するものとして捉えているようである。「現象そのものの姿のうちに、背後の自己とその本源界との貫通相を、つつましくそのままに結晶させ定着させる」それが俳句の固有性だという。そうして注目すべきはこの草田男の目に映る世界の二重性が、祖母の死を境にして「極度に強化された」といっていることである。二重性は意味と虚無とのいわゆるラザロス体験と密接に結びついている。

 冬山という目に映る現象は、幾重というひとつの存在相に思い至ったときに、俄かにこの存在の根拠への問いへと転化する。草田男の思想句といわれるものの成り立ちを教えてくれる句だ。ここでも山の幾重と認識相の二重性が単に寓意的に並べられているわけではない。冬山幾重という望みやるはるかな空間意識から一句は出発している。二重性の思想に冬山を後れてとってつけたわけではない。

 ブレイクが支援者に宛てた手紙の一節を書き写しておこう。〈For double the vision my Eyes do see, /And a double vision is always with me./With my inward Eye `tis an old Man grey; /With my inward,a Thistle across my way.〉いつだって私の目に見える映像は二重なんですから、それにその二重の映像は常に私と一緒なんですから、だから内なる目をもってすれば白髪の翁、外なる目をもってすれば我が道に横たわる薊。自然はそのままではただの映像に過ぎない。その現象を貫いているはかりしれない実相の探究こそ造化の門、草田男の選びとった救済の道だったのである。 (横澤放川)

「十一月の草田男」 2023・11

茶の花や嘴黄なる白家鴨  (『銀河依然』)

 

 高松市郊外の香西照雄宅に昭和二十四年、数日滞在した折の一句である。句集ではなぜか二十五年の作品としてこのときの一聯が収録されている。一聯の完成が翌年にわたったということだろう。この句を含む十五句には前書が附されている。「附近を独り散策。風物すべて、地つづきなる我が故郷伊予に似通ひたり。なつかしさ限りなし」とある。

このことばがそのままこの句のこころばえをいい表わしているだろう。母や祖母と過ごした故郷の幼年期、その記憶からくる人なつかしさ、人なつこさの情。そしてここでは家鴨もまた白と黄のひと花のようだ。茶の花も嘴そろえた家鴨も、その追憶を仲間同士喜びあえるかのようだ。

草田男には三十代の〈茶の花はの日は沈む〉(『萬緑』)以来、十数句の茶の花の句があるが、それらの茶花はいつも家族や朋友や、あるいはそうしたはらからの仲間に入れて睦みあいたくなるような人々に添えられている。日本人の可憐なこころの象徴ともいわんか。

〈茶の花うつむき英字書かれし日本の石〉〈母が家ちかく便意もうれし花茶垣〉(『銀河依然』)さらに〈茶の花や花びらかこむ亡母の顔〉〈出来し名刺を身内が眺め花茶垣〉(全集④巻)〈巨きなる茶の花仲よげ農夫婦〉(全集⑤巻)などなど。この便意ということばの至純さ、こよなき明快さ。ある種の泥臭さを好む作家などに見られる汚穢趣味などとはおよそ次元がちがう。

もう一句、よく読み込んでみればしみじみとした感情をさそう句を記しておこう。〈花茶の気閾一と条眼が迎ふ〉(『美田』)。別棟療屋に籠る石川桂郎を鶴川へ訪ねた折の九句のうちの一句だ。草田男五十五歳。零落というのではないが、焼け出されて都下鶴川へと移り、かつ病臥にある桂郎。その桂郎を会うや忽ち、庶民の気品というべき花茶の気と讃えているのである。〈つて見せ起きてみせよや冬小藪〉。九句のうちにはこんな哀憐の一句もまたある。(横澤放川)

「十月の草田男」

桃流しぬ西王母の桃天竜に  (『母郷行』)

 

 近時は白桃などもずいぶん早くから出回るようになったが、実桃は従来から晩秋十月の季題である。秋の稔りにはやはり十月の太虚がふさわしい。昭和二十八年、草田男は母の遺骨を父の墓へと合葬するために、八月松山へと帰郷した。この帰松の旅は途次、京都に立ち寄り、但馬美作らの案内で三井寺や幻住庵址で数多の作品を残している。芭蕉の〈先頼む椎の木も有夏木立〉に因んだ〈父母既に亡くて頼みし椎夏木〉などである。

 松山での諸句をふくめ百六十余句を得たこの旅の帰路は『長子』巻頭の〈貝寄風に乗りて帰郷の船迅し〉を逆に辿るかたちで神戸に戻っている。そのあとに天竜川を詠んだ句が連続するのは、京から島田へと移っていた𠮷田健二の慫慂によるのかも知れない。〈天竜奔る僅かな片陰だにすらも〉〈炎天奔流何に留意のひまもなく〉〈天竜の日洩れ片陰息づきぬ〉そしてそのあとがこの西王母の句なのである。さらに〈天竜に桃流すことより初む〉がつづく。母の納骨を遂げての新たないのちの養いの思いがこの初むという措辞なのである。いのちそのものの象徴としての西王母の桃なのである。

 草田男は四十三歳の頃〈掌の白桃父の願ひぞ子に実りぬ〉〈白桃や彼方の雲も右に影〉(『来し方行方』)と詠んで以来、かなりの数の桃の句をなしている。『母郷行』以外のそれぞれの句集から一句ずつ引くならば〈生きてゐる妻と枝頭に灼ける桃と〉(『銀河依然』)、そして〈父母なみに末子の桃も水に浮く〉(『美田』)、〈日本の実桃末子の尻を掌に受けて〉(『時機』)、〈熟れ桃やの大気の息づかひ〉(『大虚鳥』)などである。

 これらの桃の句の、それこそ〈桃の重みを案ずるごと桃の膚に乗す〉(『銀河依然』)と詠むいのちの微妙な感触を味わいたい。桃流しぬのこの、ぬという助動詞は意図して流したといっているのではない。ごく自然に、おのずと手から時の流れに委ねることになったというのである。母ほかにまつわる幾多の、果たされたもの、果たされなかったものへの情念とともにである。(横澤放川)

「九月の草田男」

夜長し四十路かすかなすわりだこ (『来し方行方』)

 

 終戦時に草田男は「終戦の大詔を拝したる日、及びそれにつぐ日日、六句」という前書を附して〈烈日の光と涙降りそゝぐ〉〈切株に据し蘖に涙濺ぐ〉〈空手に拭ふ涙三日や暑気下し〉と痛哭の句を残している。さらにもう三句は〈戦争終りたゞ雷鳴の日なりけり〉〈陽が欲しや戦後まどかな月浴びつゝ〉と、そしてこの四十路の一句なのである。その敗戦の炎夏が過ぎようとし、ようように季節は秋へ傾きだした頃の草田男の感慨を示すこの三句を、金子兜太は痛烈に批判している。

 痛哭の気概などといえるのは前の三句のみであって、あとは急速に寛いだ風に「あっさり転じてゆく」というのである。「痛哭は「三日」間だったのか、などと皮肉の一つもいいたくなる」というのである。

「自然・人生・社会―此大存在の前に、私は虔ましく畏惶するの心根を保ちつゞけて来た。全体の一部であり、全体の一端であるにすぎない「自己」を全体の中に位せしめることによつて、肇めて自己の自己たる本質も分明となる。斯くしてのみ「自己」を全体の中に実現せしめるの方途も自から啓けてくる。これが私の唯一の信念であり、唯一の生きて行く道であった」。第一句集『長子』の跋でそう表明していた草田男ではないか。そのいうところの全体とはしかし、たったの三日で「新たな「全体」に身を置きかえることができ」るような全体だったのか。

 草田男コントラ兜太の対立のひとつの理由がここにある。大正八年生れの兜太はトラック島からの生還者である。しかし明治三十四年生れの草田男は前線戦闘の経験も徴兵体験も持ち合わせてはいないのである。明治の本物の時代という幼年来の記憶を依然保持していた草田男に対して、それこそそんな信仰は譬喩もろとも消え失せ、戦争に青春を奪われるしかなかった兜太の世代は、そんな歴史観を保持したままの全体観を受け容れることができる筈もないのである。

 兜太が批判する草田男の「受容的な全体観」とは、転向のごときことではもとよりない。そのような「百八十度の転換変身を、いとも安々と見事に演じ了せる姿」から「何ともいえない敗戦国民の悲哀を満喫せずにはいられなかった」(「このごろ思うこと」昭和44年)と吐露する明治人草田男の、その全体観を考えてみなければならない。(横澤放川)

「七月の草田男」 

「日の丸」が顔にまつはり真赤な夏  (『大虚鳥』)

 

 戦後も二十年近く経た昭和三十九年の作品である。強くこころを惹く句であるが、初見の頃からこの「まつはり」という措辞に気にかかるものがあった。裾がまつわるとか、この語にはつきまとう、鬱陶しくも離れずにいる、懸念の思いが頭にまつわって離れない、といった否定的な感情がそれこそまつわりついているからである。日の丸とは草田男にとってそういうものだとは到底思えないのにである。

 日の丸、あるいは国旗を詠った草田男作品を少し列挙してみよう。〈「日の丸」爽か新生日本の国際旗〉〈「日の丸」爽か緋眼の白馬勝にゆ〉は同じ昭和三十九年、オリムピック詠唱十一句のなかの、手放しで旗を振っているような昂揚の二句。〈日の丸に裏表なし冬朝日〉はそれから九年後、七十二歳の頃の句だ。これなども戦後の、いや戦後なおの草田男の国旗観を教えてくれる作品ではないだろうか。

 国旗で詠んだ句には三十五年、五十九歳の頃の〈国旗の玉の残光機影に早や冬灯〉といった戦時記憶をも思わせる句を始めとして〈初旅車窓たまの国旗も後々と〉〈小鳥の声々京都に国旗映ゆる日よ〉(六十七歳)〈一竿の国旗舞ふかに鶴の舞〉〈無人のに国旗や梅の芯真黄〉(六十九歳)などがある。この梅の芯の句の前には全集第5巻では〈明治の噴水声なき鶴唳一条に〉という句が置かれている。やはり〈明治生れの父のみ夏も魚好き〉(これも三十九年)と詠う明治人草田男の感慨なのである。

 まつわるという語はそんな日の丸に対して用いられているのである。次のような作品を見れば、この語の草田男にとっての肯定的な意味が知れる。〈まつはりし闇の蛾たゝずみ居れば去る〉(『火の島』三十六歳)〈門柱めぐり足にまつはり秋の蝶〉(六十七歳)〈花豌豆の柵にまつはり糸げむり〉(七十八歳)。まつわるという語は、草田男何歳になっても、慕わしげに身に絡まりくるものへの哀歓の表現なのである。この糸げむりの句など、そういう意味での絶妙の身体感覚を思わせる。

顔にまつはりとは、払いもならぬ擽られるような触感を、真赤という眼裏かけての色彩感覚とともに吐露しているのである。もとよりその裏には、戦前戦中戦後という歴史意識を包含しつつにである。(横澤放川)

「六月の草田男」

蛆一つ轢かれぬ渺たり渺たりな  (『時機』)

 

 この三月の俳人協会総会で、渡辺香根夫さんの『草田男深耕』が俳人協会評論賞として表彰された。無念なことに著者は詮衡決定の二日前に長逝なさったから、編集を担当した僕が受賞のことばを代理させていただいた。そのなかで草田男にあって金子兜太にない決定的な本質は深みの次元だということに話が及んだ。僕は兜太の自然体質に出たことばの分厚さを好むが、その兜太が季題宗だといって不思議がるところにこそ草田男の文学の本質がある。

これは草田男の文学の出発の動機ともなった斎藤茂吉の歌の体質と比較してもいえることのようだ。茂吉にもこの草田男の蛆一つにもどこか通う〈みづからの産卵せむと土を掘る虫のおこなひ微かなりとも〉(『小園』)といった虫の歌があるが、それでも〈わらじ虫たたみの上に出で来しに烟草のけむりかけて我居り〉〈うごき行く虫を殺してうそ寒く麦のはたけを横ぎりにけり〉(『赤光』)などを思えば、こんな小生物に向けた眼は山形金瓶の農家に生まれた茂吉の、そのままの体質から出たものだろう。そこからいのちの深みやその条件へと全霊で迫ってゆくといったものでは到底ない。きわめて人間くさいそのどんみりした、いわば現世的な言語体質にこそ茂吉の本領がある。兜太また然りだろう。

 宗教性ということは一種の自己否定とともに始まるといえる。草田男の教え子であり著名な哲学者だった由良君美がそのあたりの消息を鮮やかに表現してくれたことがある(『中村草田男読本』所収「草田男の風貌」)。草田男の「洋に相渉る発想」の句として、この蛆一つを採りあげ、その傍証にウイリアム・ブレイクの詩句を挙げてくれる。〈 The cut worm forgiveth the plough 〉即ち、ちょんぎられた蚯蚓は鋤をゆるす。

そして由良さんは、香根夫さんをもいたく喜ばすに違いない見事な評言を最後に附す。「草田男は、キリストを歌うことのできる、稀れな異教の俳匠である」と。渺たる存在からも深みの次元へのまなざしは開かれてゆくのである。(横澤放川)

「五月の草田男」

鶏鳴の多さよ夏の旅一歩   (『来し方行方』)

 これは集中「旅一歩」と章題が附された句群のうちの先頭の一句だ。そのうちには〈汗拭きしをばしづかに掻く百姓〉や〈新や農夫よく乾き〉などの佳句が含まれている。、扨てその土地の名はとなるとはっきりしないが、いづこかの田園であることだけは分かる。こうした佳句を生む旅の出立に際して草田男には、いわばその旅への期待感にこころ弾ませたこの鶏鳴のような第一句がいくつかある。逆にいえばそのこころ弾みがさながらウオーミングアップとなって、爾余の佳句を、こうした光景との出逢いを、呼びあげているのだとも思えるのである。こういう旅へのこころの整えと昂揚が詩にはいかに大切かが分かる気がする。この鶏鳴の句など、もう失われてしまったともいえる風物と記憶の時間を想起させて懐かしいかぎりだ。
 この昂揚からの出立を見事にみせてくれたのが、第一句集『長子』の帰郷二十八句の先頭を飾っている〈に乗りて帰郷の船迅し〉だろう。一句が『長子』一集の巻頭にあって、いわば燦たる象徴となっているとさえ思えるのである。『来し方行方』にはさらに富士見高原に赴いた「秋雲離々」の大作の先頭に〈今朝九月草樹みづから目覚め居て〉の爽涼そのものの一句が置かれる。「秋雲離々」はすべてがその爽涼感の敷衍のなかにあるといっていい。第五句集『銀河依然』には「指頭開花」と銘打った金沢行六十六句がある。その先頭句が〈虹の後さづけられたる旅へ発つ〉である。さらにこの昂揚はそれだけで収まることなく〈車窓金星一途なるものすずしけれ〉〈短夜の日本の幅を日本海へ〉とつづく。
 その推移が如実に感じられ始めた時間意識と、列車が彼処へ自身を運んでゆくこの空間意識との統一。いのちの統覚作業とでもいうか。草田男はそのようにして、これから待ち設けているはずのものどちへとこころを整え、こころを徐々に掻き立て始めているのである。矢立の初めこそはこころすべき。(横澤放川)
 

「四月の草田男」 

撞いては聴く腰折百姓春の鐘 (『大虚鳥』)

 

 昭和四十三年の五月初めに草田男は毛越寺での第七回芭蕉祭で講演をしている。六月号発表句に〈茂りて低きみちのくの松初桜〉〈みちのくの初花今にして紅く〉〈いまの世人撮し合ふとき雉子の声〉とあるのはこの平泉の景である。さらに毛越寺では〈黄桜の落花延年は男舞〉〈笛で呼び太鼓でおくり花の舞〉〈延年の舞観るや落花に咽びつつ〉〈落花切々延年の舞にあやからん〉と、やすらのいのちを祈る句をのこしている。その四句のあとに置かれているのが、この腰折の句である。いずれも立夏直前の黄金週の作品だろう。

 草田男は昭和三十七年、金子兜太とのいわゆる造型俳句論争ののち、重度の精神の衰弱のため長期入院を余儀なくされている。退院後に吐息のように詠まれた〈ラザロの感謝落花のに昼み〉は、その恢癒ということの喜びとも不思議とも知れない感情をまどろみというたゆたいの感覚で表明している。

 この感覚はその後も折につけ意識の表へと浮上してきたことが作品から知れる。昭和四十一年には〈とまれ更生こゝに仔馬と仔蜥蜴と〉と詠む。更生とは本復後の新生にほかならないが、その新生にも「とまれ」というたゆたうような但し書きがのせられている。さらには平泉行の年の三月号には〈春光や快癒者ものを撫で撫づる〉と、自身を包む存在世界の感触をしきりに確かめているのである。

 腰折百姓というのは字面のみからするならば、差別用語そのものである。刊行物として発表する場合には出版社が断り書きを附さなければならない作品が、草田男には幾つもある。〈真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道〉など正にそれに該当する句だ。しかし草田男におけるこうした用語は、一方的に他者を貶めるものではなくて、その他者を介して常にそれは己れ自身へと打ち帰ってくる痛切な響きを秘めている。

 それは一種の自虐ではあろうが、懸命な自己否定をとおしての、更生、新生への希いが投映されてのことだ。営々と畑を打っては曲りきった腰。その苦節こそがいのちのかえっての勝利でなければならない。撞いては確かめ聴く春の鐘のやすらの韻きがそれを証している。(横澤放川)

「三月の草田男」

 刻々と雉子歩むたゞ青の中  (『来し方行方』)

 

 昭和十八年、四十二歳の折の句だが、そして実に生動感を覚えさせる作品だと思うが、いささか気になる点がある。雉子は歳時記の分類に従えば春の季題である。おそらく繁殖期のあの雄鳥の精悍な鳴き声が、その目立たしさが、この分類の根拠なのだろう。実際この季節には人間さえ恐れずに草陰から威嚇の声ともに走り出てきたりもするのである。しかしただ青の中とはなんだろう。草木の生々たる繁茂のたけなわさを思わしめる描写ではないか。

 この句集では雉子を詠った句が四句つづけて掲載されている。書き出しておこう。〈雉子なくや今なほかたき足がため〉〈雉子叫び道に蹄のあと見るのみ〉〈手足ぬくく生くるはよろし雉子の声〉そして掲出した青の中である。このなかでは三句目の手足ぬくくが、一応暖冬から早春へ入りかけたかの季節を感じさせる内容だといえよう。それと並んでの青の中は、だから季節感などということでは爾余の句とは齟齬をきたしているとも思えるのである。

 そこから類推するならば、手足ぬくくも季節感ではなくて、安定した幸福感をいう比喩だと考えたほうがいい。実際これらの句はこの年の夏に蘆ノ湖でものされた十一句のうちの四句なのである。冒頭の〈玻璃一と重夏の山湖に押し臨む〉を見れば有無をいわさぬ事実だろう。草田男の作句のなんたるかが、その一端が垣間見えるようだ。

 〈鷹消えぬはるばると眼を戻すかな〉(『来し方行方』)は冬季ならぬ、九月一日富士見高原での作。〈蒲公英のかたさや海の日も一輪〉(『火の島』)は春ならぬ厳冬の九十九里での一句。草田男は出向いた先での嘱目とそれを囲繞する世界とを、いま経験しているそのままに、自己の生命と生き生きと呼応させながら描写しているのである。雉子が春で鷹がどうのということではない。草田男の詩的衝動はそんなところから始まるのではない。ものみなのいのちからだ。

歳時記があって、その季題分類があって、しかるのちに俳句があるのではない。この自然のいのちと作者のいのちの呼応があって詩が出現する。季題の分類だ季節分類だは、そのあとの二次的な文化現象、あさってのことだ。三月ならぬ草田男だが、ご愛嬌とさせていただきたい。(横澤放川)

「二月の草田男」

春の愚者奇妙な賢者の墓を訪ふ (『銀河依然』)

 

 「我居所より程遠からぬ三鷹町禅林寺内に、太宰治氏の新墓あるを訪ふ。三句」という前書を附す。草田男より八歳年下の太宰の死は昭和二十三年、この三句はその翌年の四十九の春の作。〈いくさよあるな麦生に金貨るとも〉〈浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」〉と戦後の虚脱の世相が詠まれた頃の作である。同時の爾余の二句は〈居しを忸怩と墓発つ鴉合歓の芽枝〉および〈南京豆墓前に噛み噛み未成年〉。共感的な眼とはとてもいえない。

 この賢愚の対比は、意味もあるまいが、ふと南国伊予の蜜柑と津軽の林檎を思わせる。あるいはドストエフスキーの『イディオット(白痴)』に描かれた無垢のムイシキンと無頼のロゴージンとの対比を。草田男にはインタビューでこの墓所を「ええ、あれはいい対照ですね。鉄の如き意志を持つ明治の本尊みたいな鷗外と太宰とが並んで」と語った断片記事(「武蔵野漫歩」)はあるが、ほかに太宰に積極的に言及した形跡はない。

あとは昭和二十六年の津軽行の折に、街道のとある角で成田千空に教えられて呟いたかの三句がある。〈坪林檎太宰の故郷この奥二里〉〈薊と小店太宰の故郷へ別れ道〉〈太宰の通ひ路稲田の遠さ雲の〉。さらに「川口爽郎氏――太宰、その作品『津軽』中に、岩木山の最もうるはしく見ゆる個所には、必ず凄艶の美女住む旨を誌せることを語る。二句」の前書を附した〈晩年とは何ぞや北の秋空瑠璃〉および〈風の凌霄ここのきれいな岩木山〉がある。晩年というのは早逝太宰の処女小説集の題名でもある。

 ニーチェはイエズスが余りに急ぎ死を熱望し過ぎたという。老年のなかには青年よりもより多くのこどもが棲まうという(『悲劇の誕生』)。ある対談で草田男は語る。「『よもだ』というのは、非常に松山の人にぴったりした、一種独特のものです。私なんかも、あるいは、その範疇に入るかもしれない。『よもだ』というのは、一応のものはわかっていて、見えているけれども、ヴァイタリティがそれほどには伴ってなくて、しかし諦めずにいつまででも粘っておる、というような気質です」(「近代俳句のメッカ」)。愚者イディオットよもだ草田男。  (横澤放川)

 

「一月の草田男」

卵黄を掻き解き掻き解く冬夕焼 (『美田』)

 

 入門書『新しい俳句の作り方』のなかで草田男は、子規が近代絵画論から採り入れた写生の態度と方法を、実に丁寧にほぐしながら述べてくれている。

旧派の宗匠俳諧のように「せまい頭の中で、いいかげんな作りごとを考え出して、いいかげんな俳句をでっち上げないで、すべて写生によって解決する。直接経験によって、自分に見えたり聞えたりしたとおり、自分で感じたとおりを、少しもズラさないで文字に写しとって俳句にすること――の必要を唱え、同時にどんどん実行してみせました。つまり――俳句を、せまい頭の中のくだらない理屈の世界から、再びひろい現実の、活き活きとした生活の場へ引き出したのです」。平明裡に写生をいい尽くした文章だろう。

 卵黄の句の自句自解(6巻391頁)では、黄色は「一日の終熄の平安な気持」だとする。「万事が質素であった故郷での小学生時代には、よく祖母から鶏卵一個だけを与えられて、ぬく飯の上に直接ぶっかけるか、汁を多くしてフワフワに煮るか、薄膜様に伸ばして焼いて食べるか、自由に料理するのが楽しみであった。長箸で小刻みに掻き解いても表面張力で決してこぼれ落ちないのが、子供心にも楽しかった」。

 掻き解き掻き解くとは、子規が小口から描いてゆけといったその写生そのものである。見えたり聞えたりする直接経験そのものである。その写生のなかから、卵黄の黄は夕焼の黄へと溶けゆき、祖母恋しとはいわずとも、懐かしい思い出とともにある現実の生活の場へと広がり始めるのである。

 〈黒雲から黒鮮やかに初燕〉の自解(366頁)においても、このさながらの写生の二重性とでもいうべき秘鑰が述べられている。戦後間もない一嵐来そうな吉祥寺駅頭。「戦争を凌いだ古巣へ軽快溌刺とした初燕が訪れてきたのだと確認された。漆黒の全姿の輝き。それは、時代と人心との真唯中へ、一種の打開の可能性のシンボルさながらのものが、矢文のように届けられたかのようであった」。

 さても写生とは平明な。されどその直接経験に驚かせる潜在経験の不可思議なちからよ。写生という自己探究よ。(横澤放川)

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