​「森の座」

今月の草田男

「十月の草田男」

 川波さへ強きにすぎて初野菊  (『美田』) 

 

 前書に「『野菊の墓』の映画化されたるものを観る」とある。昭和三十年に公開された木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」である。映画は政夫と民子のその政夫、老齢となった政夫が帰郷する場面から始まる。最後に民さんと訣れることになった矢切の渡しのほとりに、彼は野菊のような民さんのその野菊を見届けるのである。若い頃に観た印象ではロマンティシズムに溢れた名篇だったけれど、齢長けてみれば、ひとの生死というはまこと切ないものだ。 

 草田男はその民子の面影に寄せる川波を配ってやる。しかしそれさえもが追懐を癒すにはというのだ。画面中からかかる場面をひき出してくるのは、ものへの共感力がいかに強い視力かと思わせられるのである。先だって『来し方行方』には〈初野菊仮想の女人みなあはれ〉といった句もあるが、この抒情も伊藤左千夫に由来するものだろう。 

 伊丹万作の遺作シナリオ「俺は用心棒」を映画化した作品を観たときも〈どこの冬田ぞ「達者で暮らせ」と画面ゆ声〉(『銀河依然』)と、草田男の眼は記憶の冬田へと、恐らくは放埓も含めた青春期の記憶へと遡ってゆく。だからこの台詞が如実味を帯びてくるのである。この句にはもう一句が添えられている。〈回想自ら密度に誇り法師蟬〉というわけだ。 

「ヘンリイ・フォンダ、その面影我が故友伊丹万作に似たりと子等のいへば、新聞広告に探して、その主演するところの西部劇「荒野の決闘」を観る。面影のみならず、その物腰まで、奇しくも、故友に似通ひたり」。そんな前書を附した句がある。〈有髯のそれは漆黒花覇王樹(サボテン)〉(昭和三十七年)。床屋に命じて髭や揉み上げをこってりとかためてめかした主人公を藉りて、故友に軽口を叩いているのである。なににつけても回想ぐるみに感性が働いている。映画の画面のなかにすらである。 

                              (横澤放川) 

 

「九月の草田男」  

月の輪のまことになさけかすかなる  (『長子』) 

 

 なさけとはなんのことだろう。文脈次第で結構に内容を変えることばだ。春のなさけといえばその趣きのことだろう。恋なさけは恋慕の情。深なさけなどというのもある。いや源氏のなかへこの句を置いてみれば、まさしく男女の情ということにもなりかねないことばでもある。しかしこの句の口調が伝えるのは、ひとに天降るかにもたらされるべきいつくしみ、慈愛のこころだろう。 

 草田男にもさまざまな趣きの月の句があるけれど、月となさけということで思い当たるのは、父母と子とを詠んだいくつかの作品である。第二句集『火の島』にはたんとある。〈朧三日月吾子の夜髪ぞ潤へる〉〈月ゆ声あり汝は母が子か妻の子か〉〈母が家(や)に月の湯あみの我が髪膚〉〈顧みし母が家月へ風呂煙〉〈月夜なり買ひ来て下駄を眺める妻〉。あるいは『母郷行』には痛切な〈月の背景(かきわり)退場せし母佇立の子〉がある。〈月に妻弦月に亡き母偲ぶ〉はその四年後の昭和三十二年の句集未収録作品だ。 

香西照雄さん夫妻が次男を喪ったときの〈五郎居ねど十郎囲み月の父母〉(昭和三十九年)を思っても、草田男が折にどんな思いで月という天象を仰いでいたかおのずと知れるだろう。だから〈吾妻かの三日月ほどの吾子胎すか〉(『火の島』)について平畑静塔が残したこんな嘆息も、なさけというこころと無縁ではあるまい。「こんな俳句を作った人は今までもこれからも無いと思う。聖懐胎とでも云うような至福感に充ちていて、キリスト教でいう受肉体験(インカーネエション)を享受している草田男である」(「草田男と妻」) (横澤放川) 

「八月の草田男」

 晩夏光バットの函に詩を誌す  (『火の島』) 

 

 晩夏は歳時分類では陰暦六月、つまり陽暦の七月にあたるとされる。夏を孟夏、仲夏、季夏と分けるその季夏、あるいは末夏の意味だというわけである。しかしこの季題の使われ方を見てみると、その末の夏もあとわずかな日々という感覚で詠まれてきたのではないか。 

 ことばとしてはこれは和漢朗詠集などにいわば漢詩文の用語として使われているのであり、秋近し、夏深し、夏の果などと比べても、やはりその漢語風のひびきが俳諧には馴染まなかったのかも知れない。芭蕉や蕪村にこれを季語とする例はなかなか見あたらないのである。明治以降では改造社版俳諧歳時記がこれを立項するも、例句は岡本圭岳の〈河内野を晩夏の旱霞哉〉ただ一句である。この句は一九二十年ないし三十年代の作だ。古俳諧に例を見ないのではないか。虚子の新歳時記にもそれこそ草田男の〈眠れねば晩夏夜あけの冷さなど〉がただ一句、秋近し、夜の秋などの季題の次に、夏の部の末尾におかれているのである。 

 現代において例句が圧倒的に増えてきたのは、草田男のこの二句に起因するともいえそうである。晩夏光は秋風裡、萬緑と同様、草田男の創語である。萬緑は万緑と書き換えられて現今の歳時記には立項されている。ただし万は萬の略字ではない通用字としての別字である。万緑の草田男というのは奇異な表記だといわざるを得ない。ひとの創語を使うなとは決して言わない。しかしこのバットの函の感覚を味わって見ればいい。その微妙な季節感と光芒の触覚を。使うにも大切に大切に忘れずに使いたいものだ。 (横澤放川) 

「七月の草田男」 

夕涼に農婦農衣のエモン抜く (『銀河依然』) 

 

衣紋は着物の胸のあわせをいうのだから本来、衣紋をただすとか繕うといった仕草に合わせて使われることばだ。そのエモンを抜くというのは反対に、そのあわせをゆるめて、襟首が見えるように首筋の方へ抜いてやることだ。女性のいかにも大人の着こなしであり、しかしまたときには暑熱を逃がすくつろぎの所作でもあろう。ここでは一日の仕事からようやくに解放された夕涼のくつろぎを、いわばようやく女らしさにもどってゆく姿を、共感裡にことばにしてやっているのである。 

和服が常用されていた時代にはこんなゆたにくつろぐ母の姿を、子供たちは誰でも折々に目にしたことがあるだろう。むかしの映画でも澤村貞子さんあたりがこんな仕草をどこかで見せてくれていそうである。もすこし艶冶なところでは木暮実千代さんかな。〈家うら家うら日本のをみな清水汲む〉〈をみな等も涼しきときは遠を見る〉。いずれもこのエモンと同じ頃の作品だ。 

あるいはのちの『母郷行』にはかつての乳母の健在をよろこぶ屈託ない作品たちがある。〈清水でそそくさ顔洗ひざま来し乳母ぞ〉〈とたんにゆがむ乳母の小さき涼しき顔〉〈乳母夏瘦「針当指環」今もして〉〈話しつゝ西日に乳母と後しざり〉などどれもみな、をみなたちへの、人間への共感力が生んだねんごろな描写なのである。 

その特性の描写が同時にその存在の原型的な本質に達している感がある。そこに単なる世俗描写とは全く異なるいわば具体から生まれる思想が立ち現れる。身をもっての女性観が、女性一般に通じる普遍相を帯びて立ち現れる。そうだなあ、こういうものだなあとだれでも思わせられるのである。もっとも具体化された草田男の思想詩が、こんな愛すべき姿でなりたっているのである。(横澤放川) 

 

 

「六月の草田男」  

優曇華やしづかなる代は復と来まじ (『火の島』) 

 

成田千空が蛇笏賞詮衡委員として上京なさった折のことと記憶している。一升買ってきて飯田橋の青森県人会の宿舎で酌み交わすうちに、すぐ近傍に与謝野鉄幹晶子の旧居址があるといったことから近代詩の話となった。千空さんは近代詩について評論に類するものは余り書き残さなかったが、僕は常の会話を通してこの叡知がいかに広く文学世界に通暁しているかは、いつでも感じ取ってきた。 

 その千空さんがふと、草田男に静雄の影響はどうでしょうねと呟いた。そのことばに触れてただちに想起されたのがこの優曇華の句なのである。優曇華やとほとんど同時にふたりで声にしたことを覚えている。 

僕は若年時に第五次四季の会員だったから、あらゆる現代詩をむさぼるようにして読んでいた。そうして深く共鳴していた伊東静雄の詩、たとえば「野の樫」の冒頭のフレーズ〈野にひともとの樫立つ〉と草田男の〈五月野の露は一樹の下にあり〉などが、まったく性格を異にする作家たちでありながら、なにか親和性を見せることに思い至っていた。同じくこの草田男の優曇華がいかに静雄の詩「咏唱」に親しみあえるものかも感じ取っていた。 

〈この蒼空のための日は/静かな平野へ私を迎へる/寛やかな日は/またと来ないだらう/そして蒼空は/明日も明けるだらう〉 

 伊藤整も最晩年に乃木大将にステッセルと回顧した明治。漱石もたとえば「趣味の遺伝」で吐露せざるをえなかった時代感覚。ある意味でもはや遠くなるべき時代と時代の記憶。語句の共通性よりもその代という、寛やかな日という歴史観に作品が裏打ちされていることを感じるのである。これは日本浪漫派だのどうのという文学分類を超えた時代意識の問題だ。それを千空さんもはたと直観なさっていたに違いないのである。(横澤放川) 

「五月の草田男」 

花茨白花は楽(がく)の通ひ易く (『銀河依然』) 

 

この句に接するとき僕らは直ちに蕪村の花いばらを思い起こすだろう。〈花いばら故郷の路に似たる哉〉〈愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら〉である。草田男は戦前に現代訳日本古典全集の『蕪村集』の鑑賞解説を担当している。戦後も『近代俳句講座1』あるいは日本古典鑑賞講座『蕪村・一茶』で徹底して蕪村を評してきた。 

しかし草田男は蕪村のこの花茨二句を名作としながらも、蕪村の詩界を終始芭蕉の精神との対比の中に置き、厳しく峻別している。萩原朔太郎は蕪村を郷愁の詩人と讃えたけれども、その郷愁とはただに美への郷愁つまり浪曼にほかならず、人生に深くあいわたった詩精神とはいえないとするのである。 

たとえば〈茨老(おい)すゝき痩(やせ)萩おぼつかな〉では、茨は自身すすきは妻の窶れ萩は婚期を控えた娘くのであって、一応人生の一断面を詠じていてもこれとて〈身にしむや亡妻の櫛を閨に踏〉と同然の小説的趣向に出たものだという。「かかる素材によって季題の含む情趣をいやが上にも複雑濃厚に味わわそうとする舞台演出家の技倆をここに存分に発揮しているのであって、絢爛たる舞台効果ではあるが、実人生とその体験とへはなんらの靱帯が結びつけられていないものである」。 

芭蕉蕪村双方の辞世句〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉を対比して「人生的詩人と浪漫的詩人との、好個の意味深い対照図を見る思いがする」と断定する。全集7巻の解説で井本農一は、蕪村の詩的直観を十分にみとめながらも草田男は芭蕉に傾きすぎたきらいがあると、やわやわたしなめている。 

掲句の自句自解(全集6巻380頁)では、やはり蕪村の二句を引き合いに出し、 

「この句の『楽』は、野面をどこからか伝わってきた『楽の音』であると同時に蕪村流の永遠の少年的郷愁の『楽の音』でもあるわけである」と述懐する。蕪村的浪漫は草田男のなかにもたっぷりと具わっている。そしてそれを人生的努力の発露において生かしたかったのが草田男なのだ。(横澤放川) 

「四月の草田男」

母性ネツトリ春日むさぼる緋のペンキ (『母郷行』) 

 

 このそれこそネットリとした句の前年、昭和二十七年に草田男は実母を見送っている。この頃の作物を収録した『銀河依然』には、同じ年の五月に誕生した第四女を天真のよろこびで詠った九句が弾むごとくにして並んでいる。書き写しておこう。〈五月の浦々潮満ちにけん日へ呱々と〉〈軽き太陽玉解く芭蕉呱々の声〉〈砌の蜥蜴十年ぶりの子守歌〉〈次第に虹一生懸命睡(ねむ)る赤児〉〈赤児の欠伸蚊帳はヴェールのこまかさに〉〈桜の実光(ひかり)は解(わ)かる赤児の眼〉〈生れて十日生命(いのち)が赤し風がまぶし〉〈完成が発端赤児の指紋すずし〉〈我が裾音さへも夜涼や赤児の世話〉これら清潔なるいのちの讃歌の昂揚感よ。 

 ところがほどない梅雨時になって母の病歿という人生上の大事に見舞われる。すると草田男のこの明朗の詩精神は文字どおり一転してしまうのである。この看取りの時期には足掻き藻掻いた末に、終には実弟を罵り尽くすような句さえ絞りだされてくるに至る。〈弟(おとと)すずしげ如電たらちね今消ゆるに〉あげくには〈弟(おとと)河童に化けて三つ指夏もヒヤリ〉〈河童水芸沸々酸素吸入器〉と目も当てられないことばを浴びせるに至る。これらの句にはいわば躁気と鬱気とが錯綜するままに疾走しあっている。 

次の第六句集『母郷行』は円かに詠い得なかった母への鎮魂の一書だが、それでもこの句集の冒頭近くには〈干柿の噛み口ねつとり吾子等の眼〉という、同じねっとりということばが吐かれているのである。ここではひとことだけいい添えておこう。ねっとりとは停頓して流れようとしない内的時間意識をいう。その停頓のいいようのない出口のない不安。呱々の声とかたや河童水芸と、このおそろしい懸隔、落差はなにか。ここにも草田男の虚無と意味との拮抗の問題がひそんでいる。(横澤放川) 

「三月の草田男」

舌鼓めく春耕の土切る音 (『大虚鳥』) 

 

 近代以降の俳句作家のなかでも殊に草田男は、比類のない措辞能力の持ち主である。俳句表現の第一歩ともいえる直喩によるものの形容でも、お手本のような作品をみせてくれる。〈口なしの花はや文の褪せるごと〉といった初期の作品でも、後期の〈猫じやらし触れてけもののごと熱し〉でも、実に適切にこの助動詞の語幹のひびきが生かされている。 

かと思えば体言に「めく」といった接尾語をくっつけて、自在に四段活用動詞をつくりだす。〈因果めくヂンタの音あり秋曇〉〈故郷(くに)めく町山水めきし井戸清水〉そして〈春聯の右父左母めくかも〉といった具合である。舌鼓めくとは思いもよらぬ、聴覚も触覚もなにも、五感こぞっての把握だといわなければならない。 

形容詞の語幹に「げ」という接尾語を足せば、さながらの風景を如実に喚起させることになる。つまり〈枯野測量二人呼応は嬉しげに〉〈北風(きた)の中酔人詫びる楽しげに〉というわけである。それこそそのさながらならば〈さながらに河原蓬は木となりぬ〉〈四十路さながら雲多き午後曼珠沙華〉とうまいものだ。 

疑問、反語、詠嘆などのさまざまなニュアンスをもつ助詞「か」も微妙な使い分けが見られる。〈其虫の鳴くとき夜風立つかにも〉は詠嘆のこころだろう。〈薊の棘火つかみしかに痛かりき〉は疑問の意が、そうではないのにまるでという直喩に近いひびきを生む。〈水を読むかに泉辺の老耽読す〉あるいは〈一竿の国旗舞ふかに鶴の舞〉では疑問反語詠嘆いずれともなく渾然として一景を彷彿させてくれるのである。限もなや、こんな比喩のことばの探索だけでもこれも草田男楽しもである。(横澤放川) 

「二月の草田男」  

道ばたに旧正月の人立てる (『長子』) 

 

 かつてどこの宴でのことだったか、詩人でいまは兼俳人といってもいい高橋睦郎と立ち話をしていた折、わたしが一番気に入っている草田男の作品はなんだとお思いかなと、いきなり彼が問いかけてきたことがある。その彼の微笑をみつめながら、これは油断のならぬと思った。この詩人、草田男が九尾の狐であることを百も承知で草田男の弟子に謎かけをしているのである。そこで僕がにやにやとはぐらかしていると、彼すかさず曰く〈おん顔の三十路人なる寝釈迦かな〉ですよ。 

 そのままに宴に紛れてその真意を聴きそこなったけれど、睦郎さんは最も初期の、ある意味では自意識以前のうぶうぶしい草田男を愛しているということに相違ないのである。 草田男はこの同じ『長子』に収録された一句〈冬の水一枝の影も欺かず〉を境として『火の島』以降、極めて能動的な詩精神に目覚めてゆく。それはやがて高濱虚子の危惧を呼ぶ段階にまで発展してゆく。 

昭和三十年になって虚子は『虚子俳話』において明快な自身の回答を述べている。「人間性、社会性に重きを置くことは季と優位を争ふことになる。勢ひ俳句でないものを産むことになる。諸君の志す処の如くんば、何故束縛のない新らしい詩型を選ばないのか」 

 この問題はここでは論じる余裕はない。伝統は軽蔑すべきものではないと虚子はいう。そうではあろう。この旧正月の句なども、社会性だの第三存在だのといった話の遥か以前の、季のものの伝統的情感に包まれた安寧の一句だ。睦郎さんそうだろう。場合によっては毀れやすいうぶな感性が怯えを去って生むことば。草田男以前の草田男。いいではないか、こういうものやわらかな、まどろむような草田男も渾然一体となって『長子』一巻を形成しているのである。(横澤放川) 

 

 

「十二月の草田男」 2020

 初日燦々海女の膝の間鯛一尾  (『美田』) 

 

 ニーチェの代表的な著作『ツァラトゥストラはかく語りき』といえば、常に引き合いに出される「神は死せり」ということばがある。存在はその存在の意味がなければ存在ではない。だから無には意味がないから無であるということになる。ヨーロッパの伝統的な考えではその存在の意味を根源において与え、義とし給うのは神であるから、その神が死せりでは一切は虚無ということになる。虚無主義、ニヒリズムである。ニヒルというラテン語はなにも何々ではないということだ。可笑しないい方だろうが、これは心理的には絶対的鬱だ。だから意味を恢復させるには、というより自ら初めから意味を創造するためには、自らがその神の御座に着くのほかはない。自らが創造的に超人でなければならない。 

 ニーチェはこの鬱々たる現代精神を象徴する表現を悲劇と呼んだ。『悲劇の誕生』においては、その意味と虚無との分水嶺に、ふたつの精神範型を据えている。晴朗なる観照的叡知的なるアポロン的なタイプと、躍動してやまない激情的狂噪的陶酔的なるディオニュソス的なタイプとである。この両者の、明朗と混沌との統合のうちに偉大なる悲劇は存する。 

 草田男のこの鯛一尾、なにに依存するでない初めである初日が、この一尾燦々たれといっている。そうしてその掉尾の鯛がおかれているのは、福の神恵比寿の膝ならぬ、あれや海女の膝の間なのである。膝の間とはそこから真に新たなものが産みだされ、生れてくる無辜の場である。生の苦悩と救済、あるいは明朗と混沌とはこの句では肉体ぐるみに統合され、創造的表現にもたらされている。悲劇をさらに乗り超えてむしろ天真の神聖喜劇を、いや、さながらに天鈿女の笑いのごとき神話的喜劇を目出度く達成している。(横澤放川) 

「十二月の草田男」 2019

すつくと狐すつくと狐日に並ぶ (『萬緑』) 

 

 こうした生物に対する草田男の眼差しのすこぶる快活なることよ。小動物が好きだとは自ら表明しているところなのだけれど、蝸牛をはじめの虫魚はもとよりのこと、雲雀その他の鳥類やこんな哺乳動物、しかも牛や馬のごとき大型動物に対してもその眼差しは少しも変るところがない。狐はその出会いの機会からだろう、この一句しか見当たらないが、たとえば犬を詠んだ句はその生涯に優に百句を越える。牛に至っては二百近い作品があるのではないか。近郊その他を歩きに歩いては出会ってきたからである。 

 第一句集『長子』はいわば客観写生修練期からその熟達の段階までを、僕らに開陳して見せてくれている。〈ひと枝にうすく真白く返り花〉の客観写生から、〈冬の水一枝の影も欺かず〉の事物への観入までをである。そうしてその写生眼は第二句集『火の島』を経て、この『萬緑』においてはその思想の深まりとともに、天象や植物のみならず、生きて活動する動物にまでひろく活発に及ぶようになってきている。昭和十四年のこの狐の句の直前には〈朝寒の撫づれば犬の咽喉ぼとけ〉〈牛はしづかに冬の大きな耳を対けぬ〉の二句が置かれている。撫でているのは草田男である。牛の耳がむけられている対象も草田男自身である。そこに草田男を草田男とする能動的な写生眼がすでに誕生しているのである。 

 この能動的な精神のなかから翌年の〈壮行や深雪に犬のみ腰をおとし〉が生まれる。いわゆる草田男の犬論争の当の句である。これをひそかな反戦の句として擁護しようとした赤城さかえに対しても、草田男はひとつもコメントを残していない。思想のために事物とその写生があるのではない。事物との深い共感があってそこからやがて思想は立ち上がってくるのである。このすつくと狐にしてもそうだろう。この健やかさは存在に対する虚飾ない関心以外のなにごとでもない(横澤放川) 

「十一月の草田男」 2019

母が家(や)ちかく便意(べんい)もうれし花茶垣 (『銀河依然』) 

 

 成田千空の作品〈藁塚幾座厠に気張る声すなり〉についての選評(昭和28・3)で草田男はこんなことをいう。「私は、俳壇に於てときどき目につく、作品に具体性と肉体性との強みを帯びさすつもりで、『ふぐり』『まり』などの語を無思慮に頻用する傾向を愚かだと断ずるものであるが、この句に於ては、『悪趣味』の影がない。何よりも真の意味での品位がおかされていない」。そうだろう。千空のことばの肉体性は無思慮な土着性ではない。一種の風土性の昇華を経ているのである。品位とはその昇華を経た精神のあり処をいうのである。 

 そこから草田男は高野素十から聞き及んだ話を可笑しげに、嬉しげに紹介し、それをもって千空の句を祝福するのである。「彼氏が独逸へ留学中、下宿の主婦の老婆が排便中の声をききつけたというのである。彼女は唸りながら、『オオ、ゴット。オオ、ゴット』(おお神よ。おお神よ)と言いつづけて居たとかいうことである。この句の主人公は、この平安な孤独の場にあって『ああ、南無あみだだぶつ。ああなむあみだぶつ』とつぶやいていたかもしれない」。 

 この昭和二十四年四十八歳の折の花茶垣の句の二年前にも〈花藤や母が家(や)厠紙白し〉がある。あるいは〈拭きにこよと厠に呼ぶ嬰(こ)天に燕〉は六十五歳の草田男である。〈闃(げき)たり野厠ひらく肛門・初野菊〉はさすがに第八句集『時機』には収録されなかった。「ありのままのすこやかな地上の生活から発する『動物の気』の活力と安泰さとが私は好きだ」とは同じ選評中での草田男の表白である。母が家とはそういう地上におけるいのちの安泰さがゆるされた場だ。(横澤放川) ​

「十月の草田男」 2019

戸口で子等に食べさす農婦秋の声 (『大虚鳥』) 

 生物というのは一種のエゴイズムでなりたっている。いい意味でもわるい意味でもである。単細胞生物でも細胞膜が内と外をはっきりと峻別しているから一箇の生物なのである。内と外。その内へ不用意に侵入せんとするものは免疫機構がこれをゆるさない。逆に内なるものでもすでに不用となり阻害因となるものは外へ排斥する。エゴイズムとはそういうものだ。そういう内外の出入口を表わすことばには、それこそその出入口のほかに玄関口、門口、勝手口、通用門などそれぞれ用途から見た名称がある。 

戸口またそのうちのひとつだ。たとえば玄関という漢語は玄妙の門といった、もとは入るに難い関門のことである。これに対して戸口ということばの、身ほとりの安らぎを覚えさせるような味わいを草田男はちゃんと知っている。門を構えるといった露骨なエゴイズムでは決してない、市井の生きているみんなのゆるしあい。そんな庶民生活の原点というべきものを感じとっているのである。この収穫期の繁忙のなかでの母子の姿もそのひとつである。 

 戸口というのはだからこどもたちにとっても、母のふところから安んじて遊びに飛び出していったり、また泣いて駈け戻ったりもするいともゆるやかなエゴイズムの成立点なのである。〈前山の橇の子眺め戸口の子〉〈糸車厠の戸口冬日あふる〉どれもさまざまな情景への想像を呼ぶ生活一景なのだ。〈月の戸口灯の下にある乳母車〉なども〈道路で唱ふ月島の子や雛の店〉や〈月島や三文玩具(オモチヤ)の蟬鳴いて〉などとならぶゆるしあいの町月島あたりの哀歓の景に相違ないのである。 

 草田男はそんなこどもたちをつつむ屈託ない巷間に、過ぎて去った幼年を、過ぎて去った母親との幼い日々をありありと想い起している。(横澤放川) 

「九月の草田男」 2019

肺腑抉りつ茅舎は「甘ちやん」貝割菜  (『大虚鳥』) 

 

 「老年のうちには青年よりもより多くのこどもが棲まっている」とは『悲劇の誕生』におけるニーチェのことばだ。金剛の露さながらのその文業をいっしんに成就させつつ、昭和十六年、川端茅舎は太平洋戦争を知ることなく身罷った。四十四年の生涯である。〈昇天の竜の如くに咳く時に〉という自照句が教えるように、労咳がゆえの夭逝者だといっていい。 

 虚子は茅舎をその作品をとおした風姿のみから、花鳥諷詠真骨頂漢と評したけれど、〈稲妻を仰ぐそびらに茅舎居る〉という草田男三十七歳時の句からも想い描かれるように、茅舎は草田男自身の内面最も深くへ衝き入った「審判の剣」であり、自身を一枝の影も欺かずに映す浄玻璃だった。 

〈茅舎はすべてをただ胸一つの中に畳込んで、自己の精神の生活の秘境を露わに嘗て一度も説いたことのない人物である。それと、自ら覚り得ない人にとっては、彼の其秘境は無いに等しい。無いに等しい其秘境の真中にあっての殉教者としての彼の姿――純潔のためのあらゆる果敢と犠牲――(中略)〉この「殉教者の眼」で、しずかに眺められていることを意識するたびに、この十年にちかい間、私はほんとの意味での生きてゆく励みを得ると同時に、茅舎といかに親しみ接している場合にでも、私は茅舎がひたすらに恐ろしかったのである。〉(「茅舎長逝」) 

 それなのに茅舎長逝から三十年を経て草田男は、肺腑を抉りつつだけれど、だけれど甘ちゃんと腐す。その後の幾多の貧苦困難受難を偕に経ることなしに草田男を置いてきぼりにした茅舎。その怨嗟のこころのあとに草田男は黙って貝割菜を添えてやる。もとより〈ひら〱と月光降りぬ貝割菜〉の茅舎を偲んでだ。青年と老年と。この句も〈金剛茅舎朴散れば今も可哀さう〉と同じ純潔茅舎への悼句である。昭和四十六年、七十歳となった草田男の看過できぬ哀歌である。(横澤放川) 

 

 

「八月の草田男」 2019

捨鰈親ねめし眼の歪み灼けて(『母郷行』)

もちろん良寛さんの幼少期の逸話である。この大愚良寛、幼時の名は榮蔵、字が曲(まがり)というのも面白い。陰で書ばかり読んでいる魯直の子だったという。恐らくはそんないじけようを咎めた父を上目遣いに窺ったために、そんな目で父母をねめる者は鰈になってしまうぞと、さらに叱責を喰らったらしい。その日は家を出たまま夕べになっても帰らない。母が探し当てると、あの出雲崎の礁に悄然として立っていたという。ほんとうに鰈になってしまうと信じ込んでしまったのらしい。 

 草田男は昭和二十八年、母の遺骨を父の墓に合葬するために郷里松山へと赴いている。この母郷行の旅では、曾住の地松前町で十六句の作品をのこしている。この句はそのうちの一。前書にいう。「松前町海岸の入江を訪ふ。ここは、母との生活の、最初の記憶の地なり、その頃の住居現存す」と。その母を詠んだ句が一聯のなかでつづくのである。〈四つの我も十九ちがひの母も昼寝〉〈入江日盛母みなもとに復りねむる〉〈艪の音なし日盛り母の声もなし〉〈鰡も跳ばず昼寝の母の頰丸きや〉そしてこの捨鰈の句である。さらに痛切なとどめの一句は〈詩人を生みし母の運命(さだめ)を蟹かなしむ〉である。 

 ひとのこころを心理学的なパターンで忖度するのはまずいことだが、草田男のあれこれの句にはやはり、母に対して一種の劣等複合の心理が見え隠れするのである。母の危篤のみぎりでの〈梅雨ごもれる神、罪ふかき母子(ぼし)ゆるし給へ〉(『銀河依然』)などどう解釈したものだろう。〈高き高き母と見しかも里神楽〉(『大虚鳥』)なども僕には安穏の追懐句とはとても思えない。 

名主の長男でありながら、家を捨てた良寛。必ず無用のひととなること勿れの明治の武家の子に対する命法をどこかで負目としてかかえている草田男。榮蔵・曲・沙門良寛。清一郎・三清・詩人草田男。なにかなあ、辛いものがある。(横澤放川) 

「七月の草田男」 2019

 柳川独酌笑ひ転(こ)ろげるに手頃の土間  (『大虚鳥』) 

 

 草田男七十四歳のみぎりの作品、というより独言である。同時の句に〈柳川独酌光陰過ぎゆく矢の羽音〉がある。矢の如しではなく、矢の羽音と胸辺うち驚かすところなど、草田男の魅力のひとつはこんなところにもありそうだ。これらには次のような前書が附されている。「在松山時代に故伊丹万作、失笑しつつ次の如く述懐せしことあり、『この三清(当時のわが仇名)、市中独酌の姿に遭遇せしと仮定せんか、我等瞬間にして笑倒せむ』。」 

 五十歳の頃にも万作を想起しての、なんだか鏡花風の幻想句がある。「一夜、伊丹万作の霊さだかに来る」の前書をもつ〈夏の夜語シーツの上に菓子を置いて〉〈灯蛾翔け笑ふlong(ロング)  long(ロング)  ago(アゴー) (長い長いアゴ)とざれ呼べば〉(『銀河依然』)の二句である。これらにも註が附されている。「伊丹万作は長き顎の持主なり。されば、ありのすさびに、彼がことを『顎万』なる名を以て呼びたることもありたりき」 

 草田男は作句のために、しばしば都下青梅の近傍を歩き回っていた。駅前にあった西洋料理店「梅月」でその足を休めて、推敲かたがた珈琲を楽しんでいたようだが、その梅月より右手へ行った線路側に、土間のままの大衆酒場といった趣きの店があったことを、僕は覚えている。六十五歳時の作品にも〈零(したみ)へ置けば辷る盃柳川鍋〉(『大虚鳥』)がある。これなども光陰ともにこころ驚かせて辷る思い出ではないか。 

「萬緑」昭和四十一年一月号に掲載されたこの零の句など、次には〈ビールただに自興熱帯魚のそばで〉とあり、そのさらに三句目には〈大石臼のさまの底より湧く泉〉以下、泉を詠んだ三句が置かれているのである。青梅馬引沢の家泉に相違あるまい。その足で駅頭へ戻った疲れと軽い酔裡での、七十四歳三清の、せんかたないもの恋しさの独酌に相違あるまい。(横澤放川) 

「六月の草田男」 2019

六月馬は白菱形を額に帯び (『萬緑』) 

 

 昭和三十年、草田男は同和春秋社から『文芸教室 新しい俳句の作り方』を出版した。この入門書のなかでは例句として山口誓子の代表句が引かれ、解説されているのだけれど、それがなんと原句の「七月」という季題が「六月」になってしまっているのである。〈六月の青嶺真近く熔鉱炉〉。原句の正しい表記は〈七月の青嶺まぢかく熔鉱炉〉である。 

 昭和三十五年にこれは角川文庫版で再刊されているのだけれど、この版のあとがきで草田男はこの間違いを認め、しかしながら「しかし、口幅ったい言分であり、可成り横暴なやりようであるかもしれないが、私は永く『六月』であったと信じてしまっていたし、今あらためて考え直してみても、依然『六月』の方が適(ふさ)わしいとより判断のしようがないので、これは一種の御愛嬌としてそのままのかたちで据えて置くことにする」としている。それでいいのである。それが草田男の信じる六月の生命感なのである。 

 ところが昭和五十二年になって、みすず書房からこれが『増補 俳句入門』と改題されて補訂版として再々刊される。そこでは誓子の句は原句に戻され、当該の解説のなかでは六月が七月に書き換えられてしまう。したがって六月は初夏の感じをとどめつつも盛夏に移りかける季感とされ、だから熔鉱炉の「青年のような」姿と調和しているのだとしていたものが、盛夏から晩夏へという一か月後ろへずれる恰好になってしまっているのである。いとも矛盾した記事になっているといわざるをえない。草田男自身による訂正だったのだろうか。しかも全集第四巻はこのみすず書房版を定本として収録する方針をとったから、角川版のあとがきも全集からは排除される仕儀となっている。残念なことである。 

 肝心な掲句の解説の余地がない。しかしこのカインの末裔ならぬいのち清々の白菱形という額の刻印こそが、そのいのち盛る六月こそが、草田男の萬緑の季節なのである。昭和十四年の〈萬緑の中や吾子の歯生え初むる〉以来、この十五年の溌溂たる馬の一句においてもである。(横澤放川) 

「五月の草田男」2019

個々(みなみな)「千(せん)松(まつ)」袴姿の柿落花(おちばな) (『母郷行』) 

 

 都下町田の鶴川村に昭和二十八年、石川桂郎を訪ねた折の五句のうちの一句である。桂郎は都内から焼け出されて戦後、この鶴川の里山のとっつき、能ケ谷に移り住んだ。いまは武相荘と呼ばれている白洲次郎正子夫妻の隠れ住んだ住まいも目と鼻の先である。評判をとった随筆『剃刀日記』で知られるように、桂郎は理髪業をたつきとしていた。〈昼蛙どの畦のどこ曲らうか〉という、よく味わえばさびしらの飄逸の句が示すとおりの田園で、土地の因習に馴染めないながらに、飄々とここに後半生を送ったといっていい。 

千松はもとより伽羅(めいぼく)先代萩の乳人(めのと)政岡のこども。母の言いつけどおりにお毒見役をつとめて果てた幼な子だ。この句には「石川桂郎居にて、戯作一句」という前書が附されている。死ぬるを忠義ということはいずれの代よりの習わしぞ。草田男は政岡になりかわって、おおこれも、おおこれも千松よと歎かってやっているのである。袴姿とは哀れ忠義ということだ。戯作とは桂郎を訪ねることで得たともどもの認めあい、ゆるしあいの、さればさの表明という意味だ。この互いに生きることのゆるしあいを信ずるから、草田男は能ケ谷くんだりまでのこのことやって来ているのである。 

皆吉爽雨の「雪解」を継いだ井沢正江さんがかつて、草田男のお弟子さんかやと僕を呼び止め、楽しそうに回顧してくれたことを思い出す。草田男さんは散歩のついでみたいにねえ、ひょっこり訪ねて来たりするの。そうなのだ、その虚無の反対にいるときの草田男のひとなつこさ。桂郎の最期を看取った聖路加国際病院の細谷亮太先生は俳号喨々、学生時代から何度も鶴川へ通った桂郎の弟子である。この個々(みなみな)ということばの哀歓のひびき。喨々さんにはきっとそれがお分かりだ。 

(横澤放川) 

 

 

「四月の草田男」 2019

ラザロの感謝落花の下(もと)に昼熟睡(まどろ)み  (『時機』) 

 

 短文で解説できる句ではない。この句の前年、還暦にあたる昭和三十六年は草田男にとっては実に多端の年だった。現代俳句協会内で前衛派ともいうべき金子兜太、石原八束らとの対立が激化、これにより草田男は幹事長を辞して有季定型を主張する同志たちと俳人協会を設立、初代会長の任に就く。さらに朝日新聞紙上の時評で前衛派を批判、これが翌年にわたる兜太との論争の端緒となった。「俳句」一月号に兜太との往復書簡が掲載されたのちの早春から心身の不調に陥り、久我山病院に長期入院となる。 

「病本復の歓び、そは、半ば比喩のかたちもて詠はんに」という前書がそのままにこの間の精神状況を伝えている。すでに同年萬緑四月号に掲載の〈躁鬱の境がかりの寒水呑む〉という句がある。そして飛んで十月号に〈死なざりしよ今年蒲公英多き年か〉〈八月白馬の傍で自問す「死にたきや」〉といった呟きが掲載作品のなかに、なにか藪にまぎれるようにして置かれているのである。 

ニーチェが基督へのいわば近親憎悪の末に白馬の頸を抱いて発狂したように、アンドレーエフの『ラザラス』が死と虚無の彷徨をつきつけたように、草田男はこの間その境をひとり彷徨しつづけていたのである。死かいのちか、虚無か意味か。ラザロス体験からの脱却。死に対するいのちの寧らぎ。本復とは前年の句〈基督は癒えし者の眼蔦散り尽き〉が予感的に祈願的に示すその魂の恢癒をいう。(横澤放川) 

「三月の草田男」2019 

父はみな「工人ヨゼフ」帰雁ひそか (『美田』) 

 

 この句は昨五月の〈麦の秋一と度妻を経てきし金〉という句をとりあげた際に引き合いに出したことがある。麦の秋を家族のための働き手、奉仕者への祝別のことばとして捉えてみたわけである。こちらの句では、大工ということに原型的な労働が信じられている。そして父という人間存在のひとつの原型がである。 この句、読むほどにひそかという一語が思念を次第に深みへと、いや遥かへと誘い始めるのを覚える。ひそかとはどのような態の存在感覚をいうのであるか。 

 ひそかはみそかと同じく古語の伝統的な意味からすれば、ひとのこころがものを内密にしているさまだろう。みそかごころといえば秘めた恋ごころのことだ。こっそりなにかをするといったよからぬひびきもある。しかしこの句ではその心理を表わすことばが帰雁へと添えられているのである。草田男がこのことばを使うときには、自身の内面のひそかさではなく、存在物から打ち返って知られる存在世界の深さ遥かさの感覚なのである。最初期の句〈蚊の声のひそかなるとき悔いにけり〉においてすでにその感応のさまが知られるだろう。〈萬巻の書のひそかなり震災忌〉ではひそか一語が震災の体験と記憶のすべてを収めきって静まり切っている。帰雁と並んでそれがよく分かるのは〈寒星や神の算盤ただひそか〉だ。その語の裏に厖大な知るよしもないものが鎮められているのである。 

 父。このヨゼフの句のほかにも父の普遍的な意味に想到した幾つかの句がある。〈父てふものは冬経るごとに妙になるよ〉〈春聯の右父左母めくかも〉。しかしまた〈恋しや父よ羽織の紐のご飯粒〉など、現し身の世では親しみあえる間もなく逝かれてしまった実父を慕う句も数多遺している草田男なのである。作句のため山野を彷徨するなかでふと想い到るのはそんな亡父のことどもであると述懐してもいた草田男。そんな帰雁ひそかなのである。〈帰雁との邂逅一業日に日をつぎ〉とも詠む、そんな父という存在の営々たる業(わざ)なのである。(横澤放川) 

 

 

 

「2月の草田男」2019

早春や「土膏」なる語を閲(けみ)し合ふ (昭和40・3) 

 この句には前書が附されている。〈土田亙平氏来りて共に校正をなす。即事一句。〉というのである。文字どおりの即吟だといっていい。亙平さんは文藝春秋社の優れた編集者だった。草田男とニヒリズムの問題などを話題にすると、その翌週には、お読みになられたらよろしいかと存じますと、アンドレーエフの『ラザロス』のコピーをとって持ってきてくださる。アンドレーエフはチェーホフより少し前の世代のロシア作家だ。問題小説をずいぶん残したその作家が、まるでイエズスという存在無きかに虚無と死の彷徨う姿としてラザロスを描写しているのである。 

 これは正宗白鳥逝去の折の草田男の句〈花柊「無き世」を「無き我」歩く音〉などを読み解くに必須の図書ともいえるのである。そういう文学への直観力をもちながら、亙平さんは常に腰低く、僕のような若造にも叮嚀そのものの応接をしてくれる含羞と深い自恃とを併せもった精神だった。 

 「土膏」は「本朝文粋」などの漢詩に幾つか例のあるいわば熟語化していることばのようだ。膏は雨や水に湿らせた状態、あるいは軟膏という語があるように脂を帯びていること、ひいては土の場合にはそれで肥沃となった土地をいう。探索してみると古くは詩経の曹風のなかの下泉、つまり流れ下る泉を詠んだ詩群の一章にこの膏という語が出てくる。〈芃芃黍苗/陰雨膏之〉。吉川幸次郎はこれを〈芃芃(ほうほう)たる黍の苗は/陰(くも)れる雨の之に膏(そそ)ぐ〉と読み下している。天の慈しみ、いたわりをいっているのである。 

 虚無云々はいまは別のこととして、この端正な編集者とのちょっとした探索の時間。文学という人間の関係のなかでの、偕になにかを待つ静けき時間。早春という季節のなればこその美しさだ。(横澤放川) 

「1月の草田男」2019

 悴むごと鳴り熄む鍾子期鍾子期よ (『大虚鳥』) 

 

 列子湯問篇の伯牙断琴、いわゆる知音の故事である。音楽というものは誰に聴かせるためにあるのだろうか。誰に聴いてもらいたくてあるのだろうか。演奏者はそもそも誰の前に自らの音を生み、誰においてその演奏という行為の存在根拠をもとうとしているのだろう。この問いはひとつこの伯牙という琴の名手のみの課題であるとはいえまい。あらゆる表現活動の根底にある根源問題だといってもおかしくはあるまい。 

自身の音をよく知り、真底聴きわけてくれた鍾子期を喪って伯牙は琴を断った。草田男にとってのその知音は、草田男を絶対値で見つめつづけてくれた伊丹万作にほかなるまい。そして自らを白痴とよぶまでに極まろうとした川端茅舎にほかなるまい。太平洋戦争前夜の昭和十六年に茅舎長逝の衝撃を受け、敗戦後の二十一年には孤児のごとくに万作に去られてしまった草田男である。この句はその十数年後、草田男六十二歳のみぎりの、まだに逡巡する魂の溜息なのである。 

 知音を喪うとは文字どおり悴むがごとくなのだ。ことばは誰かに向けて、いやそのことばの真実を絶対的に聴きわけてくれるなにかに向けての営みなのだ。なにかと必ずや偕にあることを第一の前提にする人間存在にとっては根源的な営みだ。その真なるものの臨在に守られた幸福なことば。それを喪失した悴けて寒い鳴り熄もうとすることば。 

 万作と茅舎は草田男にとってはそのことばの根拠への開かれた窓を教えてくれる存在だった。僕らのあらゆることばの営為を根底で意味づけているものが存在しないのであれば、ことばは滅びてあれ。その根底で意味づけているものを神と呼ぶか、弥陀と呼ぶか、真理と呼ぶか、ニーチェのごとく超人自らと呼ぶか、そんなことはあとの話だ。 (横澤放川) 

「12月の草田男」 2018

濡れ豆腐焼くや炭火の総紅蓮 (『母郷行』) 

 

 草田男の措辞能力こそは挺然たるものよと、常々思わずにはいられない。例えば〈衆目を蹴つて脱兎や枯野弾む〉(『銀河依然』)。衆目を驚かすとか、衆目を集める、衆目をそそぐというようないわゆる熟語はあるだろうけれど、その衆目を蹴ってというのである。脱兎のその脱出ということの意味が感性ともどもに一気に伝わってくる。だから兎が弾めば枯野は自ら弾むしかないのである。豆腐からの水の滴りによって炭火が俄に真っ赤に焔を立てる。それを紅蓮の焔という形容は常套だろうが、その一斉に熾った焔を総紅蓮といってくれる。総崩れ、総決起などとはいうにしてもである。しかもその措辞のなかに僕はなどか不穏なこころを感じる。 

 『母郷行』つまり亡母の納骨のための松山行を中心としたこの句集では、この句の前後を悼みそのものというしかない句が埋めている。少し列挙してみよう。〈母なき冬石臼の目をきざむ音よ〉〈月の背景(かきわり)退場せし母佇立の子〉〈返り花母恋ふ小田巻繰返し〉〈日向ぼこ涙多くて怠惰の身〉〈冬の魚臭母さいなみし人もあり〉〈寒き枕辺亡母へ金貨並べし夢〉等々。そんななかにこの総紅蓮が紛れ込んでいるのである。 

 愚図々々めそめそと怠惰にまかすしかない身がこのような嘱目に出遭って俄に熾す思慕と悔恨の感情。草田男自身跋文において「人間として欠陥多く、失敗と過誤とを繰返し、周囲に迷惑をかけつゞけてゐる私が」と嘆いている。この濡れ豆腐は円かな鎮魂ならずとも、草田男の胸中に溢れた母恋の挽歌なのである。(横澤放川) 

 

 

「11月の草田男」 2018​

冬空西透きそこを煙ののぼるかな (『火の島』) 

 

 なんだかもう過去と呼ぶような昔になってしまったけれど、萬緑の選者の任に就いてのちの成田千空とは、彼が上京する都度、当初は森かつみさんと三人で盃を交わすのが習いになっていた。かつみさんは昭和32年、草田男の鳥取行を案内同道した根っからの萬緑人だ。一時からは千空さんとふたりで、その後は心底草田男の徒である北島大果さんとまた三人で酒量を重ねてきたのだった。そんな席でこの草田男の一番弟子が話題にするのは、俳句と有力な俳句作家と、そしてもとより草田男俳句のほかはなかった。 

 この冬空の句は何度かその話題に挙げられたことがある。冬空に煙がのぼっているそれだけのこの句に、僕らはどうしてこうも惹かれるのだろう。ほかにも〈三日月のせた水輪こちらへ来たがるよ〉(『銀河依然』)にも偕に歎息しあったことがある。あらためて思うのだが、これらの作品の根底にあるのは客観写生の、いわば自家薬籠中のものとなったちからなのである。 

高野素十に客観写生を指導されていた最初期の句に〈土手の木の根元に遠き春の雲〉(『長子』)がある。土手といって見上げさせ、またその根元といって眼を少し下ろさせ、今度は遠きとその奥の空間へ眼を引き入れてゆく。なにも成算を見込んだわけではない、順序よろしい空間写生なのである。その稚純さの奥で春の雲が懐かしくも浮かび上がるのだ。冬空の句でも草田男はその写生を忘れていない。その写生のなかから、なにやらの思慕の情がのぼりだすのだなあ。 

そんな興趣に親しみあったあんな喜びの日々も、いつしか煙のように西空へのぼっていってしまった。(横澤放川) 

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