

中村草田男の精神を正しく継承する
森の座
「森の座」
今月の草田男
「一月の草田男」 2026・1
ここが師門海気の明星二日の夕 (『美田』)
昭和三十一年に草田男の「萬緑」は十周年を迎え、翌三十二年には百号記念大会が朝日新聞社で挙行される。この開催場所は大陸から帰還後萬緑を終始支えつづけ、その後朝日新聞政治部長ともなる岡田海市の斡旋によるものに相違あるまい。第六句集『母郷行』を上木し、『蕪村・一茶』の執筆も果たした草田男戦後の最盛期にあたる時期である。掲出句はそのまた翌年、昭和三十三年、草田男五十七歳となる年の年頭吟だ。
「一月二日の記録 八句」と前書にある。そのうち師である高濱虚子への表敬七句の第二がこの海気の一句である。第一句は〈師へ行く夜道門松以外松や笹〉さらにこの海気のあと〈師と炬燵に故郷の城の灯を語る〉〈師と炬燵に自愛の膝もひとり撫づ〉〈師は微恙二日夜なれど初詣〉とつづく。夜なれどというのはこの後で「破魔矢一本俳諧は飛ぶ白羽箭」なる句が伝えるように、おそらく鶴岡八幡宮に詣でて破魔矢を受けている。年頭安寧の一夕だ。
戦前に草田男は「ホトトギス」のいわゆる「甘やかさない座談会」で、花鳥諷詠を逸脱する者として、吊し上げめいた体験をしている。さらに虚子は「最近、草田男君は「新時代の俳句」という言葉を使つて次代の俳句といふものを自己の主張の方向に置いてゐる。私はそれ等の「りきみ」「あせり」の態度を見て少し危ぶむ心持もある」(『虚子俳話』「伝統俳句」昭和三十年談)とも語っている。「諸君の志す処の如くんば、何故全然束縛のない新らしい詩型を選ばないのか」というわけである。
しかし草田男の第一句集が刊行されようとする頃から、虚子は草田男の才能と人物を「質実敬虔な学徒」「また、不羈卓犖な詩人」とも評価してきているのである。大叔母に連れられて虚子に紹介されて以来、この同郷の大先蹤に対する草田男の親炙の態度に変わりはなかった。だから虚子は「俳句についてはことごとに私の意見を徴し、忠実に学ぶという態度が終始一貫して変らないと思います。少し出来だすと、虚子がなんだ、といったような素振りの見えるのが若い人の常ですが、そういう処は少しもないように思います」(『立子へ』「草田男君の句集が出る」昭和十二年談)といっていたのである。
この海気の句の翌年、昭和三十四年の虚子逝去まで、草田男は正月二日恒例の虚子庵詣でを欠かすことはなかった。戦後の虚子の諫めのことばを読み返してみると、危ぶむ心持もあるといった口吻には、同郷の弟子への虚子なりのやわやわとした諭しのこころが読み取れもするようだ。心持がではない、心持もである。吉岡禅寺洞や日野草城を、水原秋櫻子や杉田久女を有無をいわせず切って捨てた虚子である。同郷後世へのこのこころぞえを知らぬ草田男ではない。
鎌倉西口から御成通りを長谷方向へと辿る眼に映る門松や民家の松や笹。鎌倉原の台の虚子庵へと吹き寄せてくる由比ガ浜からの海風。故郷松山を思わせる嬉しい海気。 (横澤放川)
「二月の草田男」 2026・2
生きてみばや枯野の犬と生命(いのち)共に (『母郷行』)
この昭和二十八年には二月二十五日に斎藤茂吉が逝去している。〈残雪や「くれなゐの茂吉」逝きしけはひ〉〈壁画は燃え詩歌の柱倒るる代か〉などの五句を需めに応じて讀賣新聞に掲載している。壁画というのは二十四年の法隆寺金堂壁画の焼失である。戦後は帝銀事件に始まって、下山、松川、三鷹事件等々の騒擾が相次いだ時代なのである。
掲出句は茂吉逝去直後の「たまたま、原民喜氏の終焉の場所なる踏切を過りて、六句」と前書のある悼句のうちの一句である。すべて書き写そう。〈ここの線路や「冬陽の短かき顔」がのぞく〉〈電車過ぐれば枯芝すらも立ちおののく〉〈無辜が無辜償ひ無名の枯芝丘〉〈枯野の時歩世の時歩「通過」許されざる〉〈この枯野代(よ)が償はば「世の央(なかば)」〉そしてこの生きてみばやの吐息である。
原民喜は疎開先だった広島で被災した。彼が遺した『夏の花』は読むも苦しい魂の記録だ。「スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ」と人間の所業を問いただし、「水ヲ下サイ」と「原爆小景」に被爆者の業苦の呻きを記録したひとだ。「神は僕を沈黙させる」と苦悩を詠い、それでも「ヒロシマのデルタに青葉したたれ」と希ったひとだ。しかし彼は朝鮮戦争という再びの戦争が勃発した翌年の春、昭和二十六年三月に、西荻窪の踏切で鉄道自殺を遂げるに至る。無辜が無辜を償ひとは、この無辜の詩人が無辜の無数の原爆死者に償おうとしたというのだ。しかし彼はそれを終には自身を滅ぼすことによってしかというのだ。
草田男自身の個人的な情況においても、この原民喜悼六句の前年七月に、生母を喪っている。草田男一家はまだ成蹊学園の「藪陰」の校宅に住していたが、母は亡父が遺した松庵の家に住まっていたはずである。西荻窪から歩いて程遠からぬところだ。母の逝去については、ことの委細は別にして、悲憤のことばを残している。「私の母をとむらふの歌を、何が斯くまでに溷濁せしめたのであるか—私は、今後、制度と人間性の中にひそむ「残忍」の一事を凝視して、眼をそらすまいと、自らに誓ふ」(『銀河依然』跋)と。同句集では〈家を追はれし長子氷りし鯛一尾〉とも漏らしている。
母の遺骨を故郷松山の亡父のもとへと納める旅はこのあとの八月のことだ。生きてみばや。枯野をさまよう犬のごとくに己れをさがし探し歩く草田男。亡父の齢になんなんとする草田男の吐息だ。 (横澤放川)