

中村草田男の精神を正しく継承する
森の座
「森の座」
今月の草田男
「三月の草田男」
刻々と雉子歩むたゞ青の中 (『来し方行方』)
昭和十八年、四十二歳の折の句だが、そして実に生動感を覚えさせる作品だと思うが、いささか気になる点がある。雉子は歳時記の分類に従えば春の季題である。おそらく繁殖期のあの雄鳥の精悍な鳴き声が、その目立たしさが、この分類の根拠なのだろう。実際この季節には人間さえ恐れずに草陰から威嚇の声ともに走り出てきたりもするのである。しかしただ青の中とはなんだろう。草木の生々たる繁茂のたけなわさを思わしめる描写ではないか。
この句集では雉子を詠った句が四句つづけて掲載されている。書き出しておこう。〈雉子なくや今なほかたき足がため〉〈雉子叫び道に蹄のあと見るのみ〉〈手足ぬくく生くるはよろし雉子の声〉そして掲出した青の中である。このなかでは三句目の手足ぬくくが、一応暖冬から早春へ入りかけたかの季節を感じさせる内容だといえよう。それと並んでの青の中は、だから季節感などということでは爾余の句とは齟齬をきたしているとも思えるのである。
そこから類推するならば、手足ぬくくも季節感ではなくて、安定した幸福感をいう比喩だと考えたほうがいい。実際これらの句はこの年の夏に蘆ノ湖でものされた十一句のうちの四句なのである。冒頭の〈玻璃一と重夏の山湖に押し臨む〉を見れば有無をいわさぬ事実だろう。草田男の作句のなんたるかが、その一端が垣間見えるようだ。
〈鷹消えぬはるばると眼を戻すかな〉(『来し方行方』)は冬季ならぬ、九月一日富士見高原での作。〈蒲公英のかたさや海の日も一輪〉(『火の島』)は春ならぬ厳冬の九十九里での一句。草田男は出向いた先での嘱目とそれを囲繞する世界とを、いま経験しているそのままに、自己の生命と生き生きと呼応させながら描写しているのである。雉子が春で鷹がどうのということではない。草田男の詩的衝動はそんなところから始まるのではない。ものみなのいのちからだ。
歳時記があって、その季題分類があって、しかるのちに俳句があるのではない。この自然のいのちと作者のいのちの呼応があって詩が出現する。季題の分類だ季節分類だは、そのあとの二次的な文化現象、あさってのことだ。三月ならぬ草田男だが、ご愛嬌とさせていただきたい。(横澤放川)
「二月の草田男」
春の愚者奇妙な賢者の墓を訪ふ (『銀河依然』)
「我居所より程遠からぬ三鷹町禅林寺内に、太宰治氏の新墓あるを訪ふ。三句」という前書を附す。草田男より八歳年下の太宰の死は昭和二十三年、この三句はその翌年の四十九の春の作。〈いくさよあるな麦生に金貨るとも〉〈浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」〉と戦後の虚脱の世相が詠まれた頃の作である。同時の爾余の二句は〈居しを忸怩と墓発つ鴉合歓の芽枝〉および〈南京豆墓前に噛み噛み未成年〉。共感的な眼とはとてもいえない。
この賢愚の対比は、意味もあるまいが、ふと南国伊予の蜜柑と津軽の林檎を思わせる。あるいはドストエフスキーの『イディオット(白痴)』に描かれた無垢のムイシキンと無頼のロゴージンとの対比を。草田男にはインタビューでこの墓所を「ええ、あれはいい対照ですね。鉄の如き意志を持つ明治の本尊みたいな鷗外と太宰とが並んで」と語った断片記事(「武蔵野漫歩」)はあるが、ほかに太宰に積極的に言及した形跡はない。
あとは昭和二十六年の津軽行の折に、街道のとある角で成田千空に教えられて呟いたかの三句がある。〈坪林檎太宰の故郷この奥二里〉〈薊と小店太宰の故郷へ別れ道〉〈太宰の通ひ路稲田の遠さ雲の〉。さらに「川口爽郎氏――太宰、その作品『津軽』中に、岩木山の最もうるはしく見ゆる個所には、必ず凄艶の美女住む旨を誌せることを語る。二句」の前書を附した〈晩年とは何ぞや北の秋空瑠璃〉および〈風の凌霄ここのきれいな岩木山〉がある。晩年というのは早逝太宰の処女小説集の題名でもある。
ニーチェはイエズスが余りに急ぎ死を熱望し過ぎたという。老年のなかには青年よりもより多くのこどもが棲まうという(『悲劇の誕生』)。ある対談で草田男は語る。「『よもだ』というのは、非常に松山の人にぴったりした、一種独特のものです。私なんかも、あるいは、その範疇に入るかもしれない。『よもだ』というのは、一応のものはわかっていて、見えているけれども、ヴァイタリティがそれほどには伴ってなくて、しかし諦めずにいつまででも粘っておる、というような気質です」(「近代俳句のメッカ」)。愚者イディオットよもだ草田男。 (横澤放川)
「一月の草田男」 2023・1
卵黄を掻き解き掻き解く冬夕焼 (『美田』)
入門書『新しい俳句の作り方』のなかで草田男は、子規が近代絵画論から採り入れた写生の態度と方法を、実に丁寧にほぐしながら述べてくれている。
旧派の宗匠俳諧のように「せまい頭の中で、いいかげんな作りごとを考え出して、いいかげんな俳句をでっち上げないで、すべて写生によって解決する。直接経験によって、自分に見えたり聞えたりしたとおり、自分で感じたとおりを、少しもズラさないで文字に写しとって俳句にすること――の必要を唱え、同時にどんどん実行してみせました。つまり――俳句を、せまい頭の中のくだらない理屈の世界から、再びひろい現実の、活き活きとした生活の場へ引き出したのです」。平明裡に写生をいい尽くした文章だろう。
卵黄の句の自句自解(6巻391頁)では、黄色は「一日の終熄の平安な気持」だとする。「万事が質素であった故郷での小学生時代には、よく祖母から鶏卵一個だけを与えられて、ぬく飯の上に直接ぶっかけるか、汁を多くしてフワフワに煮るか、薄膜様に伸ばして焼いて食べるか、自由に料理するのが楽しみであった。長箸で小刻みに掻き解いても表面張力で決してこぼれ落ちないのが、子供心にも楽しかった」。
掻き解き掻き解くとは、子規が小口から描いてゆけといったその写生そのものである。見えたり聞えたりする直接経験そのものである。その写生のなかから、卵黄の黄は夕焼の黄へと溶けゆき、祖母恋しとはいわずとも、懐かしい思い出とともにある現実の生活の場へと広がり始めるのである。
〈黒雲から黒鮮やかに初燕〉の自解(366頁)においても、このさながらの写生の二重性とでもいうべき秘鑰が述べられている。戦後間もない一嵐来そうな吉祥寺駅頭。「戦争を凌いだ古巣へ軽快溌刺とした初燕が訪れてきたのだと確認された。漆黒の全姿の輝き。それは、時代と人心との真唯中へ、一種の打開の可能性のシンボルさながらのものが、矢文のように届けられたかのようであった」。
さても写生とは平明な。されどその直接経験に驚かせる潜在経験の不可思議なちからよ。写生という自己探究よ。(横澤放川)
「十二月の草田男」 2022・12
一汁一菜垣根が奏づ虎落笛 (『来し方行方』)
この小気味いい句の短冊を僕は宝物として、別の色紙ほかの数葉とともに所蔵している。しかしなかでもこの句の料紙はすっかり黴に侵略されてしまっていて、これではまるで句の内容すらも貧極まれりと苦笑されるようなありさまだった。台紙と貼り合わせた糊に黴が侵入すると風入れを怠っている間にこの惨状となるわけだ。
それで日本橋の表具店に頼んで洗浄張替えをしてもらった。三か月後に、いま草田男が筆を擱いたばかりといったけざやかな水茎となって戻ってきてくれた。銀縁巻と見えたものが実は金だったと聞いて苦笑するしかなかった。まこと先師に相済まぬことだった。
一汁云々といえば直ちに思い出すのは、宮沢賢治が手帖に遺した「雨ニモマケズ風ニモマケズ一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」だ。米飯に汁と惣菜一品。この粗食の伝統は鎌倉期の禅門の修行の形式から始まって、江戸期には庶民のならいとなっていったのだという。衣食住のことのみならず、こころの清貧をいうこの伝統に草田男も随順する。〈一汁一菜一能に足るよ鯉幟〉(『母郷行』)。〈一菜成りて一汁火上に蚊喰鳥〉(同)。
鯉幟の句の自句自解(『萬緑季語選』)において草田男はこの一能を「具体的にいえば俳句という小文学なりにとにかく唯一筋にその制作に没頭し得ることの喜びを感謝の心で吐露しているのである」という。さらに「作者は嗣子としての男の子を持たないがこの「鯉幟」の姿を仰ぐことによって戸主としての心身の充足をことあらためて強く意識したのである」という。どこか纏綿する明治人の面影。
無芸無能にしてこの一筋につながると自身に宣言した芭蕉。その芭蕉に垣根にかき奏でさせながら随順する草田男。一能とはその芭蕉のこの一筋のことだ。そういうものに私はなりたいと草田男も信条告白している。蘇った短冊がそういっている。 (横澤放川)
「十一月の草田男」 2022・11
鳴くまでは鳴かぬ冬鵙市騒ぐ (『来し方行方』)
すでに〈鵙鳴くや十九で入りし造化の門〉をとりあげはしたが、この句に通底する芭蕉とこの小鳥ながらに敏捷不抜の鵙とについて、もう少し楽しんでみたい。今回掲げたのは冬に入ってややに不機嫌なともいえるその鵙の姿態である。
草田男にとって芭蕉のなんたるかは、その二百五十年忌を迎えてのこした二句がそのままに心情ともに伝えてくれている。すなわち〈芭蕉忌や遥かな顔が吾を目守る〉〈芭蕉忌や十まり七つの灯をつがん〉(『来し方行方』)である。この四十二歳時の句に加えて、さらに五十九歳時のいわば同行の信念を守りとおした自祝のことばともいえる句がある。〈芭蕉忌や己が命をほめ言葉〉(『時機』)。
これには自句自解がのこされている。その一部を記しておこう。「⋯⋯四時人生如電を痛感している者ほど、生命に執着し、生命存続事実を祝福せずにはいられない。そのままに私自身の立場であることを芭蕉忌に際してこそ私はことあらためて痛感せずにはおられない」。
山本健吉の軽み論を徹底して批判した草田男の姿を僕らは決して忘れない。造化はただの極楽とんぼの栖かではない。その混沌たる未完の魂が切に祝福されるものへと向かう苦闘そのものこそが、造化と生命との深き通いあいなのである。ニーチェ的にいうならば、だから鵙は天地のあわいにあってその悪戦を知る、ひたぶるで健気な、弱くて強い励ましの鳥なのである。
後年の草田男は鵙と親しみあい、愉悦を分かち合い、ときには揶揄しあいながら山野を歩いている。〈 御破算の如き音立て鵙暮るる〉〈初鵙や堆肥の湯気も高揚り〉そして〈梢なるに鵙や不動点〉(『大虚鳥』)。どれもこの同行の小さき友を懇ろにみつめてやりながらの描写だ。掲句の冬鵙も巷のとりとめない騒ぎの高みで、叡知ともなくその時機を待っている。
だからこそ鵙が一旦来たれと叫べば、遥かな蕉翁よ〈鵙の声遠を望みて道撰ぶ〉(同)の、さながらの石地の道なのである。(横澤放川)
「十月の草田男」 2022・10
魚食ふ飯食ふいづれに就けても秋の暮 (昭和54年・集外句)
萬緑誌上にも句集にも収録されていない句である。『季題別中村草田男全句』には「集外句」と断って掲載した。この句の生れた経緯についての情報を、はてどこで得たのかすっかり忘れ果てているのだが、恐らく日産火災句会の折に会員の渡辺啓二郎さんが、その場で染筆いただいた短冊に遺された句だったと思う。この年には草田男エッセイ集『魚食ふ飯食ふ』がみすず書房の手で刊行されているのであり、その祝賀をかねた句会の流れのなかでのさながらの即興句なのである。
このエッセイ集に収録された同じ題名の文章(萬緑・昭和26年・9月)で草田男は、江戸期の俳人二人がそれぞれに詠んだ秋の暮の句を比較し、それに句合せのような判定を下しているのである。ひとつは江戸中期、蕪村の夜半亭三世を称した高井几董の〈かなしさに魚食ふ秋の夕かな〉。もうひとつは江戸後期、一茶を経済的に援助したことでも知られる夏目成美の〈さびしさにつけて飯食ふ秋の暮〉。成美の句は草田男の記憶違いで、正しくは宵の秋である。
深ぶかとした実体験からおのずと流露されてくる哀憐のこころ。つまり芭蕉のいう「しおり」がこの両者では全く異なる。「素朴敦厚」のひとであり、実生活においても薄倖であったに違いない几董のかなしさは「実生活中から直ちに迸り出てきている」こころだ。そのこころの流露がそのままに秋の暮へと「尾を引いている」のだ。一方で成美も「謙虚懇篤」のひととはいえ、浅草の裕福な札差の戸主であって、そのさびしさにつけてという、いわば詩趣に出た「微温さと緩さ」は境遇からくる「訴え」の焦点に欠けている。化政期の「時代全体の文化衰微」を反映したものだ。これが評者草田男50歳の判詞である。
草田男自身の秋の暮を詠んだ句には〈貌見えてきて行違ふ秋の暮〉(『長子』30歳)や〈灯入りての魚買ふ女秋の暮〉(『大虚鳥』62歳)〈食べもの含む人に道問ふ秋の暮〉(萬緑・昭和39年12月・63歳)などがある。草田男のこころに次第に深まってゆく秋の暮。そして昭和54年、なにか微笑裡に、ほのかな苦笑裡に、両者をふところへゆるしたかに思える七十八歳の草田男。静かにも打ち囃さんかやである。 (横澤放川)
「九月の草田男」 2022・9
鵙鳴くや十九で入りし造化の門(『来し方行方』)
神経症の再発から東京帝大を休学していた草田男が初めて虚子を丸ビルに訪ねたのは二十八歳の二月である。指導係となった水原秋櫻子のもとでここから草田男の俳句作家としての道が始まったといっていい。ところがこの句は十九歳で入門したのだという。俳句入門と造化入門はだからその意味が違うのである。
この十九歳という年を草田男は「いろんな意味においても重大な転換期」だったと述べる(「俳句実習と私」)。数学嫌いの草田男は松山高校受験に失敗し、進学準備に没頭せざるを得ないまま、倦んじた折には松山近郊の山野海辺をさまよったという。そして自然の滋味恩沢にふれては心身ともにうちふるえる体験をもったというのである。「仮にこの時期を私が持たなかったとしたならば、私はおそらく終生外形的に固定した観光の対象としての自然、素材としての自然、それ以上のものを理解せず、芭蕉の「造化」の語の真意義をさえ悟ることができないでしまったかもしれない」。
この年はしかし合格のよろこびも束の間に、祖母の死に遭遇した、いわゆるラザロス体験の年でもあるのである。「死のまっただなかに刻々偶然に残存し得ている」人間という存在。一方でこの時期には、松山中学以来の楽天グループの先輩伊丹万作とのかけがいのない交流がある。その万作のことば「自分は数学の方でいう性質の符号という付加物をとりのぞいてしまった後の絶対値というものを友人の上に信じる」(「伊丹万作の思い出」)。十九の草田男の魂にはこのふたつの要素が混在している。
草田男にとって造化の門はただに客観写生や花鳥諷詠といった道ではないことが、ありありと分かる。造化の門とは、ひとことでいうならば「二重性の世界」である。鵙の声とは、存在の不安や虚無に翻弄される自身に対する強い詰問の声であり、一方ではその懊悩のなかで自己の全体をあげて絶対の探究に赴けと、たえず励ましてやまない救済の声なのである。(横澤放川)
「八月の草田男」 2022・8
追分から上げ道下げ道きりぎりす (『火の島』)
昭和二十六年青森行の途次、十和田湖から奥入瀬へと辿った草田男は蔦温泉で大町桂月の墓所を訪ねている。〈きりぎりす同音重ね桂月調〉(『銀河依然』)。同音とは次のようないわゆる美文調をいう。「水が雲か、雲が水か。雲変じて雨となり、雪となり、霰となる。水たまりて湖となり、大にたまりて海となり、流れて川となり、懸りて瀑となる」(「行雲流水」明治42)。
草田男は松山中学時代の自身をかえりみて美文家であったと自賛している。桂月は紀行文学でも名声を博したひとだが、こうした明治から大正にかけての擬古的な美麗な文体が、草田男の文学の底には記憶として生きているにちがいない。それをチョンギースの声の繰り返しのなかで、こんな奥入瀬の旅先でにわかに、微苦笑とともに想起しているのである。森の座発行所のある目白台には桂月曽住址の案内板があるが、この旅と酒を愛した文人はこれまたその風光を愛し再訪した蔦温泉で歿している。桂月調とはそのおかしみを含んだ明治大正への共感の表明だともいえよう。
草田男がきりぎりすを詠んだ句としては、北海道行での〈小羊にチョンと打ち鳴くきりぎりす〉(『長子』)をはじめとして、三十句に近い作品がある。〈きり〲す時を刻みて限りなし〉(『火の島』)や〈玉虫交る煌たる時歩をきり〲す〉(『萬緑』)に見るこの時間についての感覚は、のちの帰郷時の〈一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす〉でも、さらに晩年近い〈きりぎりす時歩の声いまを若々し〉〈きりぎりすの時歩の声々追ひ追はれ〉(昭和53)でも、忘れられてはいない。
この繰り返しが発端となった時間意識は、追分での句でも潜在的にも働いているだろう。追分からあの御代田真楽寺への街道はまさにこの起伏の繰り返しなのである。つらつらと時歩ということにも微苦笑のままに思い至っている草田男。萬緑創刊の折に、誌名を決める席で草田男は、ほととぎすがあるのならきりぎりすはどうかねといって青年たちを煙にまいたという。あながち冗談でかたづけて済む話でもないともいえようか。(横澤放川)
「七月の草田男」 2022・7
納涼映画チャーリーと犬にうつゝの濤(なみ) (『萬緑』)
涼しというのは人間の体感に直接訴える文字どおりすずしい季題だ。草田男にはこの涼し、あるいはすずしを季語とする作品が百句ほどある。この感覚をいかに草田男が好んだか証す数の多さだといっていい。しかしそのうち涼しと漢字を使って表記された句は極度に少ない。
最初の例はなんと四十六歳にもなった頃の〈風涼し雀にまがふ一市民〉(『来し方行方』昭22)である。そしてここからとんで六十代の〈危なき場所は涼しきものよ道祖神〉(『大虚鳥』昭和40)や〈涼しき曲盲人演奏目ばたきつつ〉(全集5・昭41)、さらに〈涼しさや仔牛の脚四つ動き〉(『大虚鳥』昭44)、そして最晩年八十二歳時の〈神域涼し遠くに人来人去りて〉(全集5・昭58)の五句を数えるのみである。その他は悉くすずしと表記された句だ。
随意に佳句を並べてみる。〈いつもすずし末子(ばつし)二寸の下駄の音〉〈完成が発端赤児の指紋すずし〉〈栗鼠すずし末子を趨ひて孫育つ〉〈白馬すずし振り尾鳴り次ぐササラ・ササラ〉〈細工物コクリと成就刃物すずし〉等々。これら『火の島』から晩年にわたる数多の作品のすずしは、やはり涼しとはちがう内実をもつ。
涼しという表記は、涼しき曲の一句を除けば、涼風を風涼しとし、仔牛のほとりや神域という場所を形容している。寒暖の気候現象をあらわす時候季題に分類されるものと考えていい。対してすずしは下駄の音を、一途さを、指紋等々を形容する、心象的ともいうべき真実を告げようとしているのである。存在物の無礙のよろしさ、恙なさ、その存在のすずやかさへの祈願の表現なのである。ここにも季題分類の枠に嵌まらない草田男がいる。夏季とするとも、時候とも人事とも機械的に分類できない草田男の精神世界がここにある。
納涼映画という季題は、時候を含みつつの人事季題だといえるが、はてチャーリーよ犬よ波音よ、故郷松前海岸の夏夜の浜か遠い幼年か、これはまあいかなすずしさであることか。(横澤放川)
「六月の草田男」 2022・6
蟾蜍鉄疣に満ち相(あひ)交(さか)る (『大虚鳥』)
『銀河依然』の時代にもこの蟾蜍と嬉戯する小気味よい句がある。〈蟇の子や身の稜線の張りわたれる〉〈蟇の子の土気すんなりと目大きく〉〈蟇の子もアダムも土塊一塊より〉どれもどれも惚れ惚れする描写というより、やはり蟇の子と嬉戯しあっているとしか評しようがない。こうした小動物のいのちへの活発な肯定は草田男作品のいわば本領であって、これは終生変るところがなかった。
これはしかし小動物に限ったことではない。同じ五十一歳の頃の〈軽き太陽玉解く芭蕉呱々の声〉〈次第に虹一生懸命睡(ねむ)る赤児〉などを見てみればいい。土気すんなりと目大きな蟇の子とこの一生懸命睡る赤児と、その両者の存在感にいかな違いがあろう。失礼、依子さん。一緒くたとはいわないが、その存在の絶妙のよろしさにおいては差別一切なしなのである。〈女工の目皆んな賢しげ行々子〉〈母が巻く目醒時計蛾の羽音〉(『長子』)〈ここに又無事叫喚の行々子〉(『銀河依然』)〈夜の蟻迷へるものは弧を描く〉(『来し方行方』)〈蛆一つ轢かれぬ渺たり渺たりな〉〈亀の子や古水押さへ押さへ泳ぐ〉(『大虚鳥』)等々限もなやである。
草田男七十歳のこの鉄疣の蟾蜍どちも、旧約のダヴィデやソロモンさながらに、その厚き胸当の王者として、生命の原初世界に君臨し出している。エロス、タナトスの深層心理などで論じて済ませる句ではあるまい。ひとくちにであれば、存在の善と、その勝利といっておこう。
嬉戯とは単に愛玩するなどということではない。真剣に、それこそ一生懸命に偕に在らんとしているのである。四姉妹からすれば、ときに鬱状態をきわめ、妻に頼り切り、作句に徘徊する父は、実生活においては、処置ない救いがたさもあったろう。しかしたとい実践に欠けるともこの父は、一生懸命に偕に在らんと常に奮闘し苦悩しているのである。僕はそれを疑わない。三千子さん郁子さんのすでに亡き今の時の中だけれど、そうだろう弓子さん依子さん。 (横澤放川)
「五月の草田男」 2022・5
蝙蝠や父の洗濯ばたりばたり (『美田』)
草田男には四十六歳の頃の〈別れの町飛ぶ蝙蝠の肩すかし〉(『銀河依然』)、さらには〈蝙蝠飛ぶよ己が残影さがしつつ〉(『母郷行』)、そしてルオーの版画を詠んだ〈町のキリスト蝙蝠刻に現るるのみに〉(『美田』)、デューラーのメランコリアを詠んだ〈蝙蝠飛んで白夜は昼夜の外(ほか)の刻〉(『時機』)などの数句、そして晩年期の〈蝙蝠や赤門燈の「乳もみ業」〉(『大虚鳥』)など二十句ほどの蝙蝠の句がある。掲句のばたりばたりは五十七歳、まだ四女依子が小学入学前の作品である。
このなかの蝙蝠刻などは「かうもりどき」と訓ませるのだろうか、それとも「かはほりどき」だろうか。「かうもり」は「かはほり」の転であって、いわば俗称である。改造社版俳諧歳時記で季題とその解説を担当した青木月斗は子規によって西の奉行とまで呼ばれたひとだが、蝙蝠の主季題のルビを「かうもり」としたり、夏の主季題「蟷螂生る」を「たうらううまる」と訓ませるかと思えば、秋の主季題「蟷螂」をかまきりとルビをふったりする。江戸期以来の例句の伝統を無視した不統一のきらいがある。だから草田男作品をこうもりと訓むひとが出てくる。
草田男の〈蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま〉(『来し方行方』)にも「かまきり」とルビをふって引用するような例を処々で眼にするが、誤りである。『萬緑季語選』の自解で草田男自身が《蟷螂とは「かまきり」のこと。別に「いぼむしり」ともいう》とはっきり断っているのである。鬼貫の〈蟷螂の鎌を立るも力味とや〉、一茶の〈蟷螂が片手かけたり釣鐘に〉などすべて「たうらう」と訓むものだろう。その伝統のなかに草田男もいるのである。
〈遠き孔雀近き蟷螂驕姿細し〉(『銀河依然』)や〈堕ち蟷螂だまつて抱腹絶倒せり〉(『美田』)などにはルビがないのに対して、〈蜂の古巣蟷螂(かまきり)の卵(かひ)ひそみの冬〉(『大虚鳥』)にはわざわざルビの指示がある。これ以上の論証は必要あるまい。以前にも触れた記憶があるが、江戸期来のかはほりの語感とともにであればこその、かえってのばたりばたりの可笑しみなのである。(横澤放川)
「四月の草田男」 2022・4
復活祭灰から黄花吹かれ出で (『時機』)
灰というのは聖書世界においては極めて重要な、さながらに信仰と虚無との分岐点をなすような物質、いや精神の、いや魂の象徴だ。古くはバビロンの滅亡について「塵を首(かしら)に蒙(かぶ)り灰の中に輾(ま)転(ろ)び汝のために声を挙て痛く哭き」(エゼキエル27・30)という痛悔の表現がある。 ヨシュア記やサムエル記にもこうした苦悩、悲慟の表現として灰が役割を果たす。この灰がもつ痛憤の情には、はるかのちの新約の黙示録(18・17~19)に至るまで、聖書の随所で出会うことになる。
典型的な例はヨブ記だろう。サタンによってついに業病を被ったヨブは「土(やき)瓦(もの)の砕片(くだけ)を取り其(それ)をもて身を掻き灰の中に坐り」(2・8)、呪いのことばを発したのちにはその「塵灰の中にて悔」(42・6)いることになる。灰は一旦火を経ての、その苦悩と忍耐の末の、いわば清浄と救済への願いそのものなのである。受難節の四旬が灰の水曜日をもって始まるのも、必ずやこの伝統が新約世界でも生きている証しにほかならない。
一方、黄花といえば過越し復活祭の頃の色として直ちに想われるのは金雀枝だ。曠野を彷徨した絶望の末にその樹下に至った者エリアに、パンと水とが下されたいのちの木だ(列王記略上19・4~5)。逆に「欺詐(あざむき)の舌に与えらるべきもの」も「金雀枝の熱き炭」(詩篇120・4)なのである。
この句は「肉にて殺され、霊にて生かされ給へる」(Ⅰペテロ3・18)者イエズスを、そして「我らを新たに生れしめて生ける望(のぞみ)を懐(いだ)かせ」(1・3)るために現れ給いし者を、思いもとめている。同じこころを、この黄花復活の歓びを、エペソ書がよ高らかに宣言する(5・8)。「汝ら旧(もと)は闇なりしが、今は主に在りて光となれり、光の子供のごとく歩め」。(横澤放川)
「三月の草田男」2022
杖に縋る左手(ゆんで)や右手(めて)に種を蒔く (『銀河依然』)
この句、表面をなぞる限りでは、老齢者がそれでも身を杖に支えられながら農事に励む姿と読める。おそらくはそうした実景を眼に捉えたものなのだろう。しかしその縋るということばの味わいにしばしこころを留めてみれば、その縋るよすがが杖であるだけに、違った感慨がやがて浮かびあがってくる。そんな一句であるように思う。
この句の前年、昭和二十三年四十七歳の作品に〈蔓のからみし迹ふかき杖降誕祭〉がある。そして杖といえば旧約聖書ではまず思い起こされるのはモーセの杖である。「ヱホバいひたまふ是(こ)は彼らの先祖等の神アブラハムの神イサクの神ヤコブの神ヱホバの汝にあらはれたることを彼らに信ぜしめんためなり」(出エジプト記四‐五)。救済のちからにおいてはその一振りに海をも裂き、剛愎さに対しては一撃にて水を血の川と化さしめ、民のためには磐を撃って水を湧かしめるその杖である。そしてモーセによって選ばれた者アロンの杖は「芽をふき花咲きて巴旦杏の果(み)を結」ぶ(民数記一七‐八)。
左手はあるときには弱さを打つ笞(しもと)ともなる杖を、あるときには乳と蜜との地へひとびとをいざなう導きの杖を握る手だ。草田男にはその後五十三歳時の〈夜空から「ペテロの左手」へ甲虫〉(『母郷行』)という句もある。バチカンのペテロ像やグレコの哭くペテロに見えるあの、二本の天国の鍵を握る手である。
左手の杖とは、さとしとゆるされの縋らざるべからざるいのちの条件をいう。そのうえでわたしたちの右手によるわたしたち自身のいのちの養いが、さとされつつゆるされつつ営まれてゆくのだ。一粒が三十倍百倍となることを願って。老人の景であるよりもこれは、およそ万人のうえが叙された内観の景だといっていい。 (横澤放川)
「二月の草田男」 2022/02
届かばこそを届かでやはと春嵐 (『大虚鳥』)
草田男晩年期に入ったともいえる昭和五十年、七十四歳となる年の作である。この句には草田男の女性観の一端を覗かせてくれる面白い前書が附されている。〈歌手越路吹雪、開幕直前には不安の極放擲せむかと惑ひ、一旦開始すれば一切を忘却して全力を傾注す。われ、その気質(きっぷ)をこよなく愛す〉。つまり春嵐とは、宝塚のトップスターから始まり、ヤマハホールやら日生劇場で圧倒的存在感のリサイタルを重ねていったこの歌手への草田男らしいオマージュなのである。
睡眠薬を常用しなければならないほど過敏な神経のこの歌手は、開幕前には舞台の袖で極端な緊張の余り全身を震わせていたという。マネージャーであり作詞家でもあった岩谷時子がそう語っている。奔放な行動を重ねながらも、稽古となれば納得がゆくまでとことん打ち込み、それでも承知しないその姿を演出の浅利慶太は苦しむ人と形容している。
「一旦開始すれば一切を忘却して全力を傾注す」という前書のことばからは、似たようなフレーズの句が思い出される。〈雪中梅一切忘じ一切見ゆ〉。昭和二十九年、五十三歳時の作品だ。これを収録した『母郷行』の跋中には〈「退路断たれて道始まる。」一切が根柢から奪ひ去られ、と覚えることによって、「詩人は預言者である」といふこの一つの命題がはじめてめでたく決意として完成した〉ということばがある。さらに〈存在と生命とのすべてをあげた預言といへども、それが「赦され」を附与されて、真の預言にまで成就するか否かは、たヾこの時空のすべてを統べるところの、「大いなるものの意志」にのみよる〉と。
父母すでに亡く、川端茅舎、伊丹万作に続いて松本たかしを喪った草田男の自覚と願望である。 それから二十年、草田男はこの大どかな歌唱力を具えて生まれた歌手のなおの苦しみに、「届かでやはと」と、やわやわとしたさながらのやすらぎとゆるされを与えてやっている。(横澤放川)
「一月の草田男」2022.01
壮行や深雪に犬のみ腰をおとし (『萬綠』)
昭和十五年、戦中の作だが、戦後の二十二年になっていわゆる「草田男の犬」論争を惹起した問題句である。これが犬に象徴的役割を托した句なのか、しかもそれが反戦の社会批評精神に出たものなのか、むしろ戦争讃美なのかと論争はプロレタリア俳句運動参加者を中心にして紛糾した。その中で赤城さかえは〈人々の喧騒の中から、深雪に腰をおろしてゐる哲学者「一匹の犬」を見出した作者の批評精神〉こそはこの句の功績だとした。〈「写実の果の象徴」という近代リアリズムの一つの頂点〉をなすと称賛したのである。ところがその後、草田男はその弁護者赤城に対しても、ひと言すらコメントを残していない。なぜか。
これについて論じるよりは、ここで一つの示唆ともなろう草田男のことばを引用しておこう。「玉藻」昭和十三年三月号の「問・答」という読者との応答欄での文章だ。〈親雀子雀ラヂオ軍歌ばかり〉に対する質問への回答の、その後ろ半分を記しておこう。
〈眼前の雀親子の姿をとおして感じられる自然界の不変な平穏さと、ラジオの軍歌をとおして知覚される人間界に突発した異常な動揺と狂奔と、――昔からいう、天地悠久、人間流転の此大きな事実が強い対象を含んで、私の心に迫って来ました。そうして此句がひとりでに生まれて来ました。/ある雑誌に此句をあげて「政府が熱心にラジオの統制までして、銃後の民心の団結を計っているのに、それを揶揄するとはけしからぬ」という批評が出ていたのには、余りにも、意外なのでただただ驚かされました。何故ならば、此句は単に客観的に眼前の景を詠っただけのものであって、思想的なものの分子は微塵も含んでは居りませんから。又、言うまでもなく、私は国民としての赤誠を常に意識する一日本人であるのですから。〉
社会思想云々と問われるのであれば、草田男はそんなものは微塵もと答えているのである。これも解釈は止しにしておこう。思想とはなにか。草田男にとって思想詩とはなんであったかである。何度も熟考されたい。(横澤放川)
「十二月の草田男」2021・12
焚火火の粉吾の青春永きかな (『火の島』)
第一句集『長子』において草田男の詩精神は初期のまどろみから醒める兆しを早くも見せる。これは最も初期の〈人々に四つ角ひろき薄暑かな〉と数年後の〈冬の水一枝の影も欺かず〉とを比較してみればいい。瞭然たる事実だろう。続く時期の『火の島』『萬綠』においては次第に主体的な創作精神に覚醒してゆく。そして『来し方行方』の四十代には汾湧というべき能動的精神に至る。これは誰もが認めるところだろう。
この精神歴程を端的に示すものに切字の「かな」の使用頻度がある。『長子』にはそれこそこの四つ角の句を初めとして、〈おん顔の三十路人なる寝釈迦かな〉〈起し絵の男を殺す女かな〉〈家を出て手を引かれたる祭かな〉〈蜩のなき代りしははるかかな〉さらには帰郷時の〈春山にかの襞は斯くありしかな〉〈ふるさとの春暁にある厠かな〉など、都合四十句ほどの「かな」止めの作品が見られる。「かな」は詠嘆の終助詞である。切字とは呼ぶけれども、ほかの切字に比べてみればその詠嘆は、切るというよりも流すというに近い趣きだ。初期のまどろみにはかな止めの文体が適っていたということにほかなるまい。
だからかな止めの作品は、続く『火の島』では掲出した焚火の句など、全体で六句と急激に減る。句数自体の少なさもあるが『萬綠』では一句も見られない。『来し方行方』では〈鷹消えぬはるばると眼を戻すかな〉などわずか四句。後続の『銀河依然』では〈不夭の初日われよくも死なざりしかな〉一句。『母郷行』では〈亡母の薔薇光の中はさびしきかな〉一句。かなりの句数を収めた『美田』には一句もないのである。そのほか『時機』には〈春水が一沢へゆくを熄めぬかな〉のみ。晩年二十年の作品から選抜した『大虚鳥』また〈青蔦重畳城ある故郷慕ふかな〉一句をとどめるのみである。
気の弱りというのではないが「かな」という切字には能動的精神の一時のやすらぎといった趣きがあろう。過渡期の作ともいえる焚火の句も、追憶とややのまどろみのなかにある微妙な草田男を思わせて、趣きよろしい句ではなかろうか。
(横澤放川)
「十一月の草田男」2021年11月
三猿古ればみな泣くさまや銀杏散る (『時機』)
俳句には数詞がいかに威力を発揮することか。それは個人の発見というよりも先人の永い文化の集積がその個人の精神世界を涵養しているからにほかなるまい。〈秋の航一大紺円盤の中〉ではないが、この一という数詞の威力は俳句に氾濫現象をきたしている。二は人間の愛情のもろの象徴として双燕、二輪草などに仮託されもする。〈山鳩の二羽の歌垣復活祭〉など草田男には、山鳩雌雄を唱った十数句の作品が晩年に至るまである。
それでは三という数は草田男作品の中でどんな役割を果たしているのか。長谷川伸の沓掛時次郎碑に読んだ「浅間三筋の煙」のその二筋を草田男は義理と人情だとして、残る三筋目はその「義理と人情とを確保しつつも、その世界より人をして完全に脱却せしめ得る要素ならざるべからず」と述べていた(2018・8「八月の草田男」参照)。人間精神にとっていかに重要な条件を三という数を通して考えているかが分かる。
三々九度、万歳三唱など、あるいは仏の顔も三度、三度目の正直などという。神前では三拝するものだし、天地人は三才と総称する。仏教でも三尊、三蔵あるいは三界、三悪道、三途といやなことばもある。キリスト教の弥撒でもグローリア(聖なるかな)三唱がある。キリエ(主よ憐み給え)また三唱のひとつであるように、三は洋の東西を問わず人間の存在条件と結びついているようだ。
だから三峰での〈山での惜春竜は三指に玉離さず〉などでも、その三指という何気ない描写にも、なにかこんな怪物にもひたものの愛すべき可憐さが思われて、妙な哀歓が纏綿するのだ。〈人呼ぶには三度は呼べよ閑古鳥〉なども、六十代草田男の人間的情感の深まりを思う。三度呼ばれて振り向かざる者あるなし。アリョーシャ的な純潔心もここに至るかと、滋味を湛えて去り難い句だ。青春期の草田男に伊丹万作たちがつけた綽名も三清である。
森の座発行所へは護国寺から目白台へあがってゆく。その道すがらの稲荷小祠の前に、江戸期のものだろう三猿石碑が殆ど風化したさまで待っていてくれるのである。しかもその傍らにはなにもかも見てきたような公孫樹の大樹がそびえている。通る都度この草田男の三猿古ればが想い起される。この三猿は人間生活のありとあらゆる矛盾艱難の端的な訴えの姿だ。その訴えのかたちもやがて古ることのやさしさ、ゆるされ。奔命のなかでのやすらぎとでもいっておこうか。だから草田男は猿たちをみなみなみな泣かせてやっているのである。
「十月の草田男」2021年10月
一つ買ひし巨(おほ)林檎手に旅人たり (『萬緑』)
草田男の大才をホトトギスの圏外にあって江湖に知らしめたのは、よく引き合いに出される戦後の山本健吉の『現代俳句』ではない。それより十年の以前、昭和十六年の岩田潔『現代の俳句』が三十頁にわたって称揚しているのである。
《機会があれば一般に紹介したいと思つてゐる俳句作家を私は一人知ってゐる。知つてゐると云つても、直接会つたことがある訳ではないが、雑誌「ホトトギス」の上で永い間注目し続けて来た。その人の姓は中村、名は草田男、この人こそ私は今日の芭蕉と呼んで差支へない人ではないかと、ひそかに信じてゐる。》
その岩田潔が戦後昭和二十一年に上梓した『俳句静思』を僕は偶然神保町の古書店で見つけた。ところが「愛知縣碧海郡大濱町 岩田潔」と落款の押された献呈票が貼ってある見返しに二枚の雑誌切り抜きが挟んである。調べてみるとこの書にも再録されている岩田の書評「句集『火の島』」(俳句研究・昭和十五年二月号)の切り抜きなのである。アッと思ったが、さらにアッと思ったのは、その書評の裏頁の欄外に黒インクで俳句が二句書き込まれているのである。そしてその筆跡がどう見ても、何度見ても、横向きに見ても、僕も所有している草田男のあの原稿の、繊細と天真とのひとつになった文字たちに酷似しているのである。いや草田男の手蹟そのものなのである。
夕日まとも林檎の果肉噛むよりあせ
林檎噛む夕日まともに旅終んぬ
草田男の蔵書は歿後に処分されている。弟子たちの不明以外の何事でもない。草田男はおそらくこの俳句研究誌を携えての、昭和十五年の那須野行の旅の途次に、いや旅の帰路に開いた雑誌に、この二句を書きつけたまま放念しているのである。掲出した巨林檎の句は句集『萬緑』に載っているが、この二句はホトトギスにも『萬緑』にも収録されていない。したがって全集にも『季題別草田男全句』にも収録されていない。『俳句静思』の見返しに隠された幻の草田男作品である。
(横澤放川)
「九月の草田男」 2021年9月
彼岸花「目蓮尊者の母親は」 (『来し方行方』)
この尊者の名前は通常は目連と表記される。釈迦十大弟子の一人神通第一魔訶目犍連の略名である。自句自解(全集6巻309頁)にいう。《江戸時代から流布している民謡(手毬歌であるかもしれない)に、「目蓮尊者の母親は、心が邪険で火の車⋯⋯」というのがある。此民謡は、倉田百三の「出家とその弟子」の中にも引用されている。此句は決して、彼岸花の地獄花、仏花という別称からくる気分を、アレゴリー化したものではない。此句を作った時分の私の上には、こう詠まずには居られない、「ひとしれぬかなしみ」が実在したのだ。》
その草田男の教へるとほりに、百三の戯曲(大正五年)の第一幕第二場では、親鸞の台詞に〈私はまだ童子であったころに友だちと遊んでよく「目蓮尊者の母親は、心が邪険で火の車」といふ歌をうたひました。私はその歌が恐ろしくてなりませんでした。〉とあるのだ。邪険というのはその母親青提女の慳貪、つまり我が子可愛さの利己欲の餓鬼道をいう。草田男にもその恐ろしさを吐露した〈聞かぬ子の母は遍路となりにけり〉(ホトトギス9年6月号)があり、母の臨終に耐えぬ〈梅雨ごもれる神、罪ふかき母子(ぼし)ゆるし給へ〉といった悖乱の句がある。百三の戯曲は冒頭に正信念仏偈から「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」という偈頌(げじゅ)を引いている。
偽経ともいう盂蘭盆経本文第一から出て流布した目蓮救母伝説なのだ。その目連の供養心が盂蘭盆会の始まりなのだという。説話から大衆的な説教節、あるいは説教浄瑠璃へと大衆化、陸前北部ではいまに口寄せの祭文、盆口説、盆唄として残るという。親鸞の和讃や証文などでは目連という表記だが、金春禅竹の能楽題では「目蓮」、伝はる説教節正本でも「目蓮記」である。草田男は幼児期来の大衆歌謡の記憶からこの一句に想到しているのである。『来し方行方』を収録した全集第二巻では校閲正誤表に目連と訂正を入れてあるが 目蓮のままでいいのである。
(横澤放川)
「八月の草田男」 2021年8月
雲海に蒼荒太刀の峰のかず (『萬緑』)
美ヶ原から三城牧場にかけて辿った旅の所産だ。〈雲海やまだ夜の如き莨の火〉〈天地蒼きに固唾をのんで巌の鷹〉あるいは〈九十九路(つゞらぢ)下る泣きむし仔牛爽かに〉などの佳品の数々を産んだ昭和十五年八月の旅である。前年にはいわゆる人間探究派の呼び名の由来となった「俳句研究」での座談会が催され、この年には「ホトトギス」四月号で草田男をいささか吊るしあげる「あまやかさない座談会」が行われる。新興俳句に対する弾圧もすでに始まったそんな社会情勢のなかでの、なに障るものなき、やがての『来し方行方』の時代へと繋がる昂揚期の群作である。
昭和六十二年の六月に二代目選者の香西照雄が急逝し、その二か月後の八月末に「萬緑」は浅間温泉で全国大会を開催した。美ヶ原から安曇野にかけての吟行は、僕にとっては成田千空とじっくり時を過ごすまたとない機会となった。美ヶ原台上、この大会の主催者だった笠原蜻蛉子らとともに、かつて草田男が作品にものしたこの景観を感慨裡に打ち眺めることとなった。
その折に千空がふと、眼前に丈を見せる草の花を見つめながら、ししうどは季題になりますかねと問いかけてきた。当時の歳時記類には猪独活はまず立項されていなかったと思う。記憶にありませんけど、こうして眺めると揺るぎない季題ですねえ。そう答えたのを覚えている。そのとき千空は草田男のこの蒼荒太刀の句を眼前に据えていたのである。吟行後の句会において投ぜられた千空句〈ししうどや金剛不壊の嶺のかず〉に接したとき、はたとそれに気づいた。草田男への真正面からのオマージュの一句なのである。
蜻蛉子またそれに驚いたひとり。「槍、穂高から白馬連峰に至る北アルプスの大パノラマを金剛不壊と喝破したのは、千空以外にはいない」(脚注名句シリーズ『成田千空集』)。蒼荒太刀といい金剛不壊といい、師弟というはよきことかな。 (横澤放川)
「七月の草田男」 2021・7
沙の膚小石の堆(つかさ)泉湧く(『大虚鳥』)
草田男の作品世界に泉という嘱目が初めて登場するのは第二句集『火の島』の末尾、「信濃居」の一聯のこれも末尾に置かれた九句をもってである。昭和十一年の結婚から三年を経た十四年、軽井沢千ヶ滝での避暑期の作品群。〈泉辺に日のありどころ妻問へり〉〈吾子の上妻が言ふ間も泉湧く〉などがその事情を伝えてくれる。その終尾の句〈泉辺のわれ等に遠く死は在(あ)れよ〉の「は在」の二文字がこの龍星閣版では致し方なくも脱字となっている。草田男の遅い青春の開花を告げる作品ではあるのだけれど。
それから十一年後、昭和二十五年四十九歳には〈円き泉二十年来一宣言〉(『銀河依然』)と唱いあげ、さらに十年後には〈終生まぶしきもの女人ぞと泉奏づ〉(『時機』)と再宣言する。その他三十九年の〈絶えず一旦泉の面盛りあがる〉(『大虚鳥』)はおそらく南軽井沢、昭和四十二年以降はこれに御代田真楽寺や青梅馬引沢の泉が参加してくる。四十五年の〈飯粒(いひぼ)四五がひらききつたり家泉〉(『大虚鳥』)などまさに、この青梅吉野街道沿いの民家の敷地内の良泉に相違ない。
処々で詠まれた泉の句は二百に余る。もう制作年度は無視して挙げるなら〈泉辺へ生きものすべて独り来る〉〈泉の音山姥恋し母恋し〉〈うたかたの命泉に充満す〉〈唇歯没して馬や音なく泉吸ふ〉〈祖父(おほちち)となりし拳(て)喫(きつ)泉(せん)くすぐるよ〉など、泉辺は草田男にとっていのちの濯ぎ場であったようだ。またそれはファウストのグレートヒェンの歌を想起した〈泉へ落ちで罪人堕涙顎伝ふ〉〈泉へ誦(ず)する「父母忌みの歌」父母恋し〉などの贖いの場でもあるのだ。
これらのさまざまな濯ぎを経ての深まなざしの産物が、沙の膚小石の堆の一句である。渺たる沙までもがさながらにいのちのごとくだ。小品ともいえまい。 (横澤放川)
「六月の草田男」 2021.06
いくさ無しむらさきすべく青葡萄 (『来し方行方』)
昭和二十一年六月、四十五歳の草田男は、甲斐酒折町の加賀美子麓に招ぜられて二泊三日を当地に遊んだ。その折の〈戦災悲話水鶏叩けど叩けども〉〈世はハタと血を見ずなりぬ花柘榴〉など七句のうちの一句である。終戦一年、いかにもいくさ無しの当時の酒折不老園梅林辺の風物だ。その安寧のこころがむらさきという色にひたと託されている。
草田男にはそのむらさきを詠んだ作品が十数句ある。〈桜の実紅経てむらさき吾子生まる〉は昭和十二年、三十六歳の作。〈むらさきになりゆく墓に詣るのみ〉は昭和三十年五十四歳の作である。この墓参の句には第一句集『長子』の〈猫の恋後夜かけて父の墓標書く〉を、あるいは〈父の墓に母額づきぬ音もなし〉を添えておかなければならない。
むらさきはそも植物名であって、その紫根が染色材料となってきた。入手に難く染色もむつかしいこともあって尊ばれてきたのだという。萬葉巻一に額田王の〈あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る〉があり、これに返す皇子の御歌〈むらさきのにほへる妹を憎くあらば人づまゆゑに吾恋ひめやも〉もまた、これをにおいやかの色と認識している。冠位十二階の制でも紫は筆頭の当色(とうじき)なのである。紫雲、紫禁、紫宸等々同じ伝の形容だろう。源氏末摘花で藤壺が紫の云々と呼ばれるのも中宮だからだ。藤壺の姪が紫の上と名づけられるのも、理想の優美なる女御として育てられるから。その作者藤式部を紫式部と呼ぶのも、もののあわれの幽玄筆頭の色をもって讃えてのことだ。
長女三千子の誕生を待った成蹊学園校庭の桜の実の日々。そして戦後のとまれの安寧の日々。さらにこれが深々と人生の色を深めおおせたのが、その十年後のむらさきになりゆく墓の絶唱なのだ。三十代、四十代、五十代。時の歩みの深いさとし。ゆかりの色むらさきは草田男のその感ずべきこころに出でた、いのちの安寧成就の色だ。戦争などという社会事象を考えるにつけてもである。(横澤放川)
「五月の草田男」 2021.05
五月(さつき)なる千五百(ちいほ)産屋(うぶや)の一つなれど (『火の島』)
「ホトトギス」昭和十二年八月号に掲載されたこの句については、同年十一月の「玉藻」誌上で、読者の問いに答えるかたちで草田男自身が解説をしている。古事記の伊弉諾尊と伊弉冉尊の黄泉平坂神話にこの語の典拠があるというのである。黄泉から逃げ帰った男神に対して女神は、はずかしめを受けた怨念から、汝の国人を一日千人亡きものにすると叫ぶ。それならば吾は一日に千五百の産屋を樹てんと男神は応じる。「人間の生成、繁殖を祝福する言葉」だというのである。
句集ではこの句の直前に〈櫻の實紅経てむらさき吾子生る〉が、さらに直後に は〈父となりしか蜥蜴とともに立ち止る〉が置かれている。蜥蜴の句には虚子の簡潔に要を尽くした一行評がある。「父となったという事も考えてみれば奇蹟の一つ、不思議の思いにとざされて立ち止った足許には蜥蜴も来て止った」
五月という季語は現行暦の月名とすべきではない。さつきである。後年の作品〈久闊の馬とその眼や五月富士〉や同時の〈麦秋の埃すぐ消ゆ馬脚の間〉〈五月富士水に手浸す五指十指〉などからみれば、五月から六月にまたがる、麦が熟れ紅い実がむらさきする清々の季節をいっている。長女三千子はその六月に入っての誕生なのである。
この前年、福田直子と結婚した三十五歳の草田男は、室生犀星および日野草城を相手どって大論争を展開している。いわゆる「ミヤコ・ホテル論争」である。草城の連作の旧態依然の女性観に賛意を表明した犀星に対して、草田男は「新潮」七月号の「尻尾を振る武士」で「犀星は豚と真珠ととり違えた」と痛烈に批判した。これに反論した犀星草城両者に対してはさらに「俳句研究」十月、十一月号にわたった「長生アミーバ」で徹底して論駁し、その薄暗い女性観を斬り捨てている。
千五百産屋。この句もそれそのものが草田男の女性観の、男女観の、人間観生命観の、高らかなあかあかの凱歌だといっていい。(横澤放川)
「四月の草田男」 2021.04
回心(ゑしん)も徐々雀の親に日差濃く (『大虚鳥』)
回心の回あるいは廻の字を漢音でも呉音でもなしに「ゑ」と読むのは、回向と同じでいわば慣用音だ。キリスト教の Conversio も回心と訳され、漢音で「かいしん」と発声される。しかし草田男には回心(かいしん)ということばを用いた作品は一句もない。しかししかし「ゑしん」とするのはだから、草田男がこの回向、つまり弥陀から信心のこころを賜るというような、真宗教学の意味合いで一句を詠んでいるのだとは考えられない。どうもこれは厄介なことである。
草田男には春の雀の親子を詠んだいくつもの句がある。〈親雀仔雀ラヂオ軍歌ばかり〉は盧溝橋事件直前の昭和十二年の作、さらに〈速度の迹ヂープに轢かれし親雀〉は二十五年、まだ占領下の光景である。親があれば子がある。その後の〈仔雀を見下す親の横伝ひ〉〈遠眺めまだ親子なる雀どち〉そうして〈仔雀の死しておもかげやや老(ふ)けぬ〉〈子雀のひびらき降り来し親雀〉〈安んじて背を見せてゐる親雀〉など、どれも雀という愛憐の対象に家族という存在の意味を確かめようとしているのである。
悔悛、悔悟、悔改めといった同じくコンウエルシオの訳語としても使われることばがある。それとも共通して迫る回心(かいしん)という語のひびきに、怒れる神の気息に、草田男はきっと怯えごころをいだいている。六十四歳となった草田男のなおの由ある厄介さ。信仰者妻直子とそのこどもたち。草田男もまたその雀たちの親たらねばならない。うからと偕にコンウエルシオは迫らず迫らず徐々の日差しのように「ゑしん」というありがたさでなければならない。(横澤放川)
「三月の草田男」2021.03
土手の木の根元に遠き春の雲 (『長子』)
第一句集『長子』は昭和四年から十一年までの作品を収録しているのだが、編年体で編集されてはいない。四季順配列である。しかもその配列は各季とも、初期からの作成年順になっているのでもない。
春の部のうしろの方に出てくる〈黄楊の花ふたつ寄りそひ流れくる〉といった素十ばりの写生句は、昭和四年の初期作品。それに対して巻頭に据えられた帰郷二十八句は、昭和九年春、亡父の墓所整備のために母とともに帰った松山での産物なのである。しかもこれらは十一年までに磨きをかけられて完成した作品群である。〈貝寄風(かひよせ)に乗りて帰郷の船迅し〉に始まるこの弾力そのものの帰郷詠は、草田男の詩精神がいかに急速に能動的な変貌を遂げていったかを証明している。
以前にも引用したことのあるこの春の雲の句は、まるで初期の客観写生の修練そのものといった印象をあたえはする。それでもこれは貝寄風の句の次に置かれた、帰郷の折の第二番目の句なのである。これを味わうにはだから、それに続く松山東野をたもとおっての〈春山にかの襞は斯くありしかな〉〈そら豆の花の黒き目数知れず〉〈麦の道今も坂なす駈け下りる〉などの幼少年期への追懐のこころを切り離すわけにはいかない。
子規がかつて写生は小口から絵を画くようにといったように、草田男はまず土手を画面に横たえさせ、ついでその上に木を立たせる。そしてまたその木の根元に戻り、そこからその奥はるかに春の雲たちを布置するのだ。しかし機械的なほど客観的に叙されたこの春の雲が、それでもなぜ懐かしみの感情を呼ぶのか。それはもうこの写生が思い出のよみがえりとともに、あの土手よあの木よと、生きた息遣いで事物を追い始めているからにほかならない。
こんな風に草田男の客観写生は生きたいのちの写生へと変貌を遂げてゆく。だからまた、客観写生はひとたび修練習得されなければならないと、草田男自身も回顧裡に表明してもいるのだ。(横澤放川)
「二月の草田男」2021.01
犬ふぐり一面恩寵溢るるの記 (『大虚鳥』)
昭和三十九年、草田男六十三歳の作である。二十年後の最晩年にも〈岩と岩の間(ま)仲よくせよと犬ふぐり〉がある。後句は一応没年の五十八年に「萬緑」誌上掲載のため八十二歳時の作としたが、この頃には先生は作品をなかなか生み出そうとはしなくなっていた。月々の雑誌発行のためには先生の作品がなければならない。編集担当の北野民夫か香西照雄が、以前の草田男句帳から発掘してきた未発表作品ではないかと、僕はそう思っている。ひょっとすると直子夫人がまだ健在だった頃のこころか。
恩寵溢るるの記というのは、十七世紀王政復古期イングランドのジョン・バニヤンの精神的自叙伝 『 Grace Abounding 』である。このひとは鋳掛屋の小僧で、小学校も出ない少年時からその実家の仕事に就き、遍歴ののちついには説教師としての生涯を送ることになる。自叙伝のこの題を直訳するならば、罪人の頭への溢れつぐ恩寵である。この書の入牢の件りでマタイ伝の「(主は)此等のことを智(かしこ)き者、慧(さと)き者にかくして嬰児(みどりご)に顕し給へり」(一一―二五)ということばが引かれるように、このひとは無知の罪びとこそが、自身を罪びとと絶望のうちに知る愚者こそが救済にあずかるという信仰の道を歩んだ。そこから「我窮り無き愛を以て汝を愛したり」(二十章一九〇)という声を聴いたひとなのである。
この一面の犬ふぐりは彼のもうひとつの寓意物語『天路歴程』で基督者がついに至る、あの王なる者の花園だ。持参金書物二冊のみで嫁しきたった妻とともに歩んだ、もっともこころ貧しき者の花だたみだ。(横澤放川)
「一月の草田男」2021.1
冬のルンペン打球の音見る痛さうに (『美田』)
対象に見る眼を向けるというよりも、存在物といつも一緒に嬉戯しているような草田男のことば。そんなものと嬉戯しあう直観力については、そしてそれが私たちの意識の深いところへいわば人間喜劇として沁み込んでくるということについては、以前に〈がらくた荷離さで転落青谷へ〉の趣きを楽しんだ折に触れてみたことがある。
喜劇は人間の愚かしさへの単なる嘲笑ではない。自身またその愚かしさのなかへ入り込んでの泣き笑いを、その自他の確かめあい、自他の相互承認、自他のゆるしあいを喜劇、コメーディアと称ぶ。この本質を欠いたものは人間の傷をこづきあう露悪なドタバタ劇にすぎない。草田男がチャプリンの作品や自伝に共鳴するのは、そのドタバタとも見える映像の根底に、ついにゆるしあいを希う喜劇の本質を直覚しているからである。
滑稽は本来、俳諧のはじまりである。しかしそれが人間本質とこそ深く結びついたものであることの発見こそ発句の誕生だったといわなければならない。俳諧の泣き笑いから発句の笑い泣きへとでもいっておこうか。人間このかなしきもの、それが喜劇の、俳句の諧謔のこころなのである。この喜劇性、深い諧謔には人間性へのよほどの直観力と、人間の挙措をそっくり写し取って忘れないような銘記力を必要とする。ただの観察眼ではない。幼時からとことん存在物と嬉戯しあってきた直覚体験の蓄積からともいえるだろう。
打球の音を見るという。さらに音を痛そうにとは凡常の直観力ではない。骨身に響くという成語があるが、そんな観念臭を払った、ともに並んで膝抱きながら侘びているような直覚的な表現なのだ。浮浪者でも、現代のホームレスということばでもなくルンペンという呼称は、やはりおんぼろを纏ったチャプリンを思わせる。人間このかなしきもの、人間この切なきもの、人間この痛きもの、草田男この痛きもの。(横澤放川)
「十二月の草田男」2020.12
共に雑炊喰すキリストの生れよかし (『来し方行方』)
この句、自句自解では喰(を)するキリスト生(あ)れよかしとなっている。「をす」という尊敬語は四段活用なのだから誤記だろう。敗戦後の昭和二十一年、この句の直後には〈一と本の青麦若し死なずんばてふ語なし〉が置かれている。「路上に落ち踏まれたる一茎の青麦を見てもふと戦の犠牲となれる教え児を思ひ出づ」という前書をもつ句である。さらには〈我が馬鈴薯実のれ燕雀たのしげなり〉〈爆弾の穴に生(あ)れたる蝌蚪と解す〉などがつづく、そんな窮乏の時代の飢えを凌ぐための雑炊である。
近年釜ヶ崎の本田哲郎神父の聖書解釈が論議を呼ぶことがあった。マルコ福音書などに出てくるメタノエイテという語を悔い改めよと訳すのは見当違いだという。メタノイアというのは例えば英語ではリペント(後悔、悔悛)あるいはコンバージョン(回心)と訳される。その伝で日本でもこのことばは「時は満てり、神の国は近づけり、汝ら悔改めて福音を信ぜよ」と訳されてきたのである。しかしギリシア語原語は直訳するならグノーシス(認識、見方)を変換(メタ)せよといっている。本田神父はこのことばを、貧しく飢えて病み障害をもったひとびと、一番小さなひとたちのところに立って共に見つめ直せの謂いとしているのである。
自句自解(全集第六巻)において草田男ははっきりと表明する。「キリストの再臨説などを唱ったものでは毛頭ない」。戦後の糧の問題のみならず心の糧、精神的荒廃から日本人は再起できるのか。「それは飽くまでも、雑炊によって日々の生命を辛くもつないでいっているこの日本の現在の民衆そのものの中から、誰かが起ちあがってくるというかたちによって以外、期待できないものであった」。
復活ということは、ペテロたちはあのひとがそのままにそこにゐたから驚いたのだ。共にとはむしろ正統なる信仰の願ひだというべし。共に凌ぐ雑炊こそ聖餐たれ。再臨ではない、そこにいてくれなければいけないひとを、隣人イエズスを草田男も想望している。 (横澤放川)
「十一月の草田男」2020.11
直面一瞬「ゆるし給はれ」冬日の顔々 (『銀河依然』)
昭和二十四年十一月高松での支部俳句大会の折に、草田男は香西照雄に案内されて大島青松園を訪問している。掲句のほかに〈兄等の頭上冬壁に「最後の晩餐図」〉〈暖冬とやわれ健康にあまなひて〉〈霊薬摂(と)つて蒲の穂(ほ)絮(わた)にくるまれよ〉など二十句を残し、高松に戻ってからも関連三句を詠んでいる。しかし端的に歴史的事実と悔恨とを示してゐるのは、定型を超えて吐露されたこの掲句だろう。
青松園にはのちに萬緑同人となる増葦雄、飯田なほ子ほかの俳人たちがいた。 遅れて萬緑会員となった大山洋さんのことも思い出される。中学の初めに隔離されて、母親の葬儀にも帰れなかったひとである。係累への難を思えば、思いとどまるしかなかった。峠路で車から降ろしてもらい、遥かな郷に向かって合掌するしかなかった。そんな洋さんの無念の文章を思い出すと、可哀相でならない。
まるで羅馬時代であるかの、いつまでもの強制隔離。人間が抜きがたく持つ根拠のない偏見。今頃になって裁判所は国の非を認めはしたのだけれども。現在では瀬戸内国際芸術祭など、数十年ここに暮らすことを強いられてきた存命のひとによるアート作品の展示など行はれている。こんな世の中になって生きてきてよかったよの呟きを聞くと、なおも複雑な感情を持たざるを得ない。
僕の叔父も兵役の広島で被爆し、縁談をこばみながらなに心情を告げることなく独身をとおしていたことなど、ふと思い出すのだ。ゆるし給われということも、霊薬も蒲の穂絮も、すべては僕らのこころの内部で育醸されてゆかなければならない課題だ。そうでなければ増さん洋さんたちが余りに可哀相ではないか。草田男の一連の作品の吐露がそう訴えている。(横澤放川)
「十月の草田男」2020.10
川波さへ強きにすぎて初野菊 (『美田』)
前書に「『野菊の墓』の映画化されたるものを観る」とある。昭和三十年に公開された木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」である。映画は政夫と民子のその政夫、老齢となった政夫が帰郷する場面から始まる。最後に民さんと訣れることになった矢切の渡しのほとりに、彼は野菊のような民さんのその野菊を見届けるのである。若い頃に観た印象ではロマンティシズムに溢れた名篇だったけれど、齢長けてみれば、ひとの生死というはまこと切ないものだ。
草田男はその民子の面影に寄せる川波を配ってやる。しかしそれさえもが追懐を癒すにはというのだ。画面中からかかる場面をひき出してくるのは、ものへの共感力がいかに強い視力かと思わせられるのである。先だって『来し方行方』には〈初野菊仮想の女人みなあはれ〉といった句もあるが、この抒情も伊藤左千夫に由来するものだろう。
伊丹万作の遺作シナリオ「俺は用心棒」を映画化した作品を観たときも〈どこの冬田ぞ「達者で暮らせ」と画面ゆ声〉(『銀河依然』)と、草田男の眼は記憶の冬田へと、恐らくは放埓も含めた青春期の記憶へと遡ってゆく。だからこの台詞が如実味を帯びてくるのである。この句にはもう一句が添えられている。〈回想自ら密度に誇り法師蟬〉というわけだ。
「ヘンリイ・フォンダ、その面影我が故友伊丹万作に似たりと子等のいへば、新聞広告に探して、その主演するところの西部劇「荒野の決闘」を観る。面影のみならず、その物腰まで、奇しくも、故友に似通ひたり」。そんな前書を附した句がある。〈有髯のそれは漆黒花覇王樹(サボテン)〉(昭和三十七年)。床屋に命じて髭や揉み上げをこってりとかためてめかした主人公を藉りて、故友に軽口を叩いているのである。なににつけても回想ぐるみに感性が働いている。映画の画面のなかにすらである。
(横澤放川)
「九月の草田男」2020.9
月の輪のまことになさけかすかなる (『長子』)
なさけとはなんのことだろう。文脈次第で結構に内容を変えることばだ。春のなさけといえばその趣きのことだろう。恋なさけは恋慕の情。深なさけなどというのもある。いや源氏のなかへこの句を置いてみれば、まさしく男女の情ということにもなりかねないことばでもある。しかしこの句の口調が伝えるのは、ひとに天降るかにもたらされるべきいつくしみ、慈愛のこころだろう。
草田男にもさまざまな趣きの月の句があるけれど、月となさけということで思い当たるのは、父母と子とを詠んだいくつかの作品である。第二句集『火の島』にはたんとある。〈朧三日月吾子の夜髪ぞ潤へる〉〈月ゆ声あり汝は母が子か妻の子か〉〈母が家(や)に月の湯あみの我が髪膚〉〈顧みし母が家月へ風呂煙〉〈月夜なり買ひ来て下駄を眺める妻〉。あるいは『母郷行』には痛切な〈月の背景(かきわり)退場せし母佇立の子〉がある。〈月に妻弦月に亡き母偲ぶ〉はその四年後の昭和三十二年の句集未収録作品だ。
香西照雄さん夫妻が次男を喪ったときの〈五郎居ねど十郎囲み月の父母〉(昭和三十九年)を思っても、草田男が折にどんな思いで月という天象を仰いでいたかおのずと知れるだろう。だから〈吾妻かの三日月ほどの吾子胎すか〉(『火の島』)について平畑静塔が残したこんな嘆息も、なさけというこころと無縁ではあるまい。「こんな俳句を作った人は今までもこれからも無いと思う。聖懐胎とでも云うような至福感に充ちていて、キリスト教でいう受肉体験(インカーネエション)を享受している草田男である」(「草田男と妻」) (横澤放川)
「八月の草田男」2020.8
晩夏光バットの函に詩を誌す (『火の島』)
晩夏は歳時分類では陰暦六月、つまり陽暦の七月にあたるとされる。夏を孟夏、仲夏、季夏と分けるその季夏、あるいは末夏の意味だというわけである。しかしこの季題の使われ方を見てみると、その末の夏もあとわずかな日々という感覚で詠まれてきたのではないか。
ことばとしてはこれは和漢朗詠集などにいわば漢詩文の用語として使われているのであり、秋近し、夏深し、夏の果などと比べても、やはりその漢語風のひびきが俳諧には馴染まなかったのかも知れない。芭蕉や蕪村にこれを季語とする例はなかなか見あたらないのである。明治以降では改造社版俳諧歳時記がこれを立項するも、例句は岡本圭岳の〈河内野を晩夏の旱霞哉〉ただ一句である。この句は一九二十年ないし三十年代の作だ。古俳諧に例を見ないのではないか。虚子の新歳時記にもそれこそ草田男の〈眠れねば晩夏夜あけの冷さなど〉がただ一句、秋近し、夜の秋などの季題の次に、夏の部の末尾におかれているのである。
現代において例句が圧倒的に増えてきたのは、草田男のこの二句に起因するともいえそうである。晩夏光は秋風裡、萬緑と同様、草田男の創語である。萬緑は万緑と書き換えられて現今の歳時記には立項されている。ただし万は萬の略字ではない通用字としての別字である。万緑の草田男というのは奇異な表記だといわざるを得ない。ひとの創語を使うなとは決して言わない。しかしこのバットの函の感覚を味わって見ればいい。その微妙な季節感と光芒の触覚を。使うにも大切に大切に忘れずに使いたいものだ。 (横澤放川)
「七月の草田男」
夕涼に農婦農衣のエモン抜く (『銀河依然』)
衣紋は着物の胸のあわせをいうのだから本来、衣紋をただすとか繕うといった仕草に合わせて使われることばだ。そのエモンを抜くというのは反対に、そのあわせをゆるめて、襟首が見えるように首筋の方へ抜いてやることだ。女性のいかにも大人の着こなしであり、しかしまたときには暑熱を逃がすくつろぎの所作でもあろう。ここでは一日の仕事からようやくに解放された夕涼のくつろぎを、いわばようやく女らしさにもどってゆく姿を、共感裡にことばにしてやっているのである。
和服が常用されていた時代にはこんなゆたにくつろぐ母の姿を、子供たちは誰でも折々に目にしたことがあるだろう。むかしの映画でも澤村貞子さんあたりがこんな仕草をどこかで見せてくれていそうである。もすこし艶冶なところでは木暮実千代さんかな。〈家うら家うら日本のをみな清水汲む〉〈をみな等も涼しきときは遠を見る〉。いずれもこのエモンと同じ頃の作品だ。
あるいはのちの『母郷行』にはかつての乳母の健在をよろこぶ屈託ない作品たちがある。〈清水でそそくさ顔洗ひざま来し乳母ぞ〉〈とたんにゆがむ乳母の小さき涼しき顔〉〈乳母夏瘦「針当指環」今もして〉〈話しつゝ西日に乳母と後しざり〉などどれもみな、をみなたちへの、人間への共感力が生んだねんごろな描写なのである。
その特性の描写が同時にその存在の原型的な本質に達している感がある。そこに単なる世俗描写とは全く異なるいわば具体から生まれる思想が立ち現れる。身をもっての女性観が、女性一般に通じる普遍相を帯びて立ち現れる。そうだなあ、こういうものだなあとだれでも思わせられるのである。もっとも具体化された草田男の思想詩が、こんな愛すべき姿でなりたっているのである。(横澤放川)
「六月の草田男」
優曇華やしづかなる代は復と来まじ (『火の島』)
成田千空が蛇笏賞詮衡委員として上京なさった折のことと記憶している。一升買ってきて飯田橋の青森県人会の宿舎で酌み交わすうちに、すぐ近傍に与謝野鉄幹晶子の旧居址があるといったことから近代詩の話となった。千空さんは近代詩について評論に類するものは余り書き残さなかったが、僕は常の会話を通してこの叡知がいかに広く文学世界に通暁しているかは、いつでも感じ取ってきた。
その千空さんがふと、草田男に静雄の影響はどうでしょうねと呟いた。そのことばに触れてただちに想起されたのがこの優曇華の句なのである。優曇華やとほとんど同時にふたりで声にしたことを覚えている。
僕は若年時に第五次四季の会員だったから、あらゆる現代詩をむさぼるようにして読んでいた。そうして深く共鳴していた伊東静雄の詩、たとえば「野の樫」の冒頭のフレーズ〈野にひともとの樫立つ〉と草田男の〈五月野の露は一樹の下にあり〉などが、まったく性格を異にする作家たちでありながら、なにか親和性を見せることに思い至っていた。同じくこの草田男の優曇華がいかに静雄の詩「咏唱」に親しみあえるものかも感じ取っていた。
〈この蒼空のための日は/静かな平野へ私を迎へる/寛やかな日は/またと来ないだらう/そして蒼空は/明日も明けるだらう〉
伊藤整も最晩年に乃木大将にステッセルと回顧した明治。漱石もたとえば「趣味の遺伝」で吐露せざるをえなかった時代感覚。ある意味でもはや遠くなるべき時代と時代の記憶。語句の共通性よりもその代という、寛やかな日という歴史観に作品が裏打ちされていることを感じるのである。これは日本浪漫派だのどうのという文学分類を超えた時代意識の問題だ。それを千空さんもはたと直観なさっていたに違いないのである。(横澤放川)
「五月の草田男」
花茨白花は楽(がく)の通ひ易く (『銀河依然』)
この句に接するとき僕らは直ちに蕪村の花いばらを思い起こすだろう。〈花いばら故郷の路に似たる哉〉〈愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら〉である。草田男は戦前に現代訳日本古典全集の『蕪村集』の鑑賞解説を担当している。戦後も『近代俳句講座1』あるいは日本古典鑑賞講座『蕪村・一茶』で徹底して蕪村を評してきた。
しかし草田男は蕪村のこの花茨二句を名作としながらも、蕪村の詩界を終始芭蕉の精神との対比の中に置き、厳しく峻別している。萩原朔太郎は蕪村を郷愁の詩人と讃えたけれども、その郷愁とはただに美への郷愁つまり浪曼にほかならず、人生に深くあいわたった詩精神とはいえないとするのである。
たとえば〈茨老(おい)すゝき痩(やせ)萩おぼつかな〉では、茨は自身すすきは妻の窶れ萩は婚期を控えた娘くのであって、一応人生の一断面を詠じていてもこれとて〈身にしむや亡妻の櫛を閨に踏〉と同然の小説的趣向に出たものだという。「かかる素材によって季題の含む情趣をいやが上にも複雑濃厚に味わわそうとする舞台演出家の技倆をここに存分に発揮しているのであって、絢爛たる舞台効果ではあるが、実人生とその体験とへはなんらの靱帯が結びつけられていないものである」。
芭蕉蕪村双方の辞世句〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉を対比して「人生的詩人と浪漫的詩人との、好個の意味深い対照図を見る思いがする」と断定する。全集7巻の解説で井本農一は、蕪村の詩的直観を十分にみとめながらも草田男は芭蕉に傾きすぎたきらいがあると、やわやわたしなめている。
掲句の自句自解(全集6巻380頁)では、やはり蕪村の二句を引き合いに出し、
「この句の『楽』は、野面をどこからか伝わってきた『楽の音』であると同時に蕪村流の永遠の少年的郷愁の『楽の音』でもあるわけである」と述懐する。蕪村的浪漫は草田男のなかにもたっぷりと具わっている。そしてそれを人生的努力の発露において生かしたかったのが草田男なのだ。(横澤放川)
「四月の草田男」
母性ネツトリ春日むさぼる緋のペンキ (『母郷行』)
このそれこそネットリとした句の前年、昭和二十七年に草田男は実母を見送っている。この頃の作物を収録した『銀河依然』には、同じ年の五月に誕生した第四女を天真のよろこびで詠った九句が弾むごとくにして並んでいる。書き写しておこう。〈五月の浦々潮満ちにけん日へ呱々と〉〈軽き太陽玉解く芭蕉呱々の声〉〈砌の蜥蜴十年ぶりの子守歌〉〈次第に虹一生懸命睡(ねむ)る赤児〉〈赤児の欠伸蚊帳はヴェールのこまかさに〉〈桜の実光(ひかり)は解(わ)かる赤児の眼〉〈生れて十日生命(いのち)が赤し風がまぶし〉〈完成が発端赤児の指紋すずし〉〈我が裾音さへも夜涼や赤児の世話〉これら清潔なるいのちの讃歌の昂揚感よ。
ところがほどない梅雨時になって母の病歿という人生上の大事に見舞われる。すると草田男のこの明朗の詩精神は文字どおり一転してしまうのである。この看取りの時期には足掻き藻掻いた末に、終には実弟を罵り尽くすような句さえ絞りだされてくるに至る。〈弟(おとと)すずしげ如電たらちね今消ゆるに〉あげくには〈弟(おとと)河童に化けて三つ指夏もヒヤリ〉〈河童水芸沸々酸素吸入器〉と目も当てられないことばを浴びせるに至る。これらの句にはいわば躁気と鬱気とが錯綜するままに疾走しあっている。
次の第六句集『母郷行』は円かに詠い得なかった母への鎮魂の一書だが、それでもこの句集の冒頭近くには〈干柿の噛み口ねつとり吾子等の眼〉という、同じねっとりということばが吐かれているのである。ここではひとことだけいい添えておこう。ねっとりとは停頓して流れようとしない内的時間意識をいう。その停頓のいいようのない出口のない不安。呱々の声とかたや河童水芸と、このおそろしい懸隔、落差はなにか。ここにも草田男の虚無と意味との拮抗の問題がひそんでいる。(横澤放川)
「三月の草田男」
舌鼓めく春耕の土切る音 (『大虚鳥』)
近代以降の俳句作家のなかでも殊に草田男は、比類のない措辞能力の持ち主である。俳句表現の第一歩ともいえる直喩によるものの形容でも、お手本のような作品をみせてくれる。〈口なしの花はや文の褪せるごと〉といった初期の作品でも、後期の〈猫じやらし触れてけもののごと熱し〉でも、実に適切にこの助動詞の語幹のひびきが生かされている。
かと思えば体言に「めく」といった接尾語をくっつけて、自在に四段活用動詞をつくりだす。〈因果めくヂンタの音あり秋曇〉〈故郷(くに)めく町山水めきし井戸清水〉そして〈春聯の右父左母めくかも〉といった具合である。舌鼓めくとは思いもよらぬ、聴覚も触覚もなにも、五感こぞっての把握だといわなければならない。
形容詞の語幹に「げ」という接尾語を足せば、さながらの風景を如実に喚起させることになる。つまり〈枯野測量二人呼応は嬉しげに〉〈北風(きた)の中酔人詫びる楽しげに〉というわけである。それこそそのさながらならば〈さながらに河原蓬は木となりぬ〉〈四十路さながら雲多き午後曼珠沙華〉とうまいものだ。
疑問、反語、詠嘆などのさまざまなニュアンスをもつ助詞「か」も微妙な使い分けが見られる。〈其虫の鳴くとき夜風立つかにも〉は詠嘆のこころだろう。〈薊の棘火つかみしかに痛かりき〉は疑問の意が、そうではないのにまるでという直喩に近いひびきを生む。〈水を読むかに泉辺の老耽読す〉あるいは〈一竿の国旗舞ふかに鶴の舞〉では疑問反語詠嘆いずれともなく渾然として一景を彷彿させてくれるのである。限もなや、こんな比喩のことばの探索だけでもこれも草田男楽しもである。(横澤放川)
「二月の草田男」
道ばたに旧正月の人立てる (『長子』)
かつてどこの宴でのことだったか、詩人でいまは兼俳人といってもいい高橋睦郎と立ち話をしていた折、わたしが一番気に入っている草田男の作品はなんだとお思いかなと、いきなり彼が問いかけてきたことがある。その彼の微笑をみつめながら、これは油断のならぬと思った。この詩人、草田男が九尾の狐であることを百も承知で草田男の弟子に謎かけをしているのである。そこで僕がにやにやとはぐらかしていると、彼すかさず曰く〈おん顔の三十路人なる寝釈迦かな〉ですよ。
そのままに宴に紛れてその真意を聴きそこなったけれど、睦郎さんは最も初期の、ある意味では自意識以前のうぶうぶしい草田男を愛しているということに相違ないのである。 草田男はこの同じ『長子』に収録された一句〈冬の水一枝の影も欺かず〉を境として『火の島』以降、極めて能動的な詩精神に目覚めてゆく。それはやがて高濱虚子の危惧を呼ぶ段階にまで発展してゆく。
昭和三十年になって虚子は『虚子俳話』において明快な自身の回答を述べている。「人間性、社会性に重きを置くことは季と優位を争ふことになる。勢ひ俳句でないものを産むことになる。諸君の志す処の如くんば、何故束縛のない新らしい詩型を選ばないのか」
この問題はここでは論じる余裕はない。伝統は軽蔑すべきものではないと虚子はいう。そうではあろう。この旧正月の句なども、社会性だの第三存在だのといった話の遥か以前の、季のものの伝統的情感に包まれた安寧の一句だ。睦郎さんそうだろう。場合によっては毀れやすいうぶな感性が怯えを去って生むことば。草田男以前の草田男。いいではないか、こういうものやわらかな、まどろむような草田男も渾然一体となって『長子』一巻を形成しているのである。(横澤放川)
「1月の草田男」 2020
初日燦々海女の膝の間鯛一尾 (『美田』)
ニーチェの代表的な著作『ツァラトゥストラはかく語りき』といえば、常に引き合いに出される「神は死せり」ということばがある。存在はその存在の意味がなければ存在ではない。だから無には意味がないから無であるということになる。ヨーロッパの伝統的な考えではその存在の意味を根源において与え、義とし給うのは神であるから、その神が死せりでは一切は虚無ということになる。虚無主義、ニヒリズムである。ニヒルというラテン語はなにも何々ではないということだ。可笑しないい方だろうが、これは心理的には絶対的鬱だ。だから意味を恢復させるには、というより自ら初めから意味を創造するためには、自らがその神の御座に着くのほかはない。自らが創造的に超人でなければならない。
ニーチェはこの鬱々たる現代精神を象徴する表現を悲劇と呼んだ。『悲劇の誕生』においては、その意味と虚無との分水嶺に、ふたつの精神範型を据えている。晴朗なる観照的叡知的なるアポロン的なタイプと、躍動してやまない激情的狂噪的陶酔的なるディオニュソス的なタイプとである。この両者の、明朗と混沌との統合のうちに偉大なる悲劇は存する。
草田男のこの鯛一尾、なにに依存するでない初めである初日が、この一尾燦々たれといっている。そうしてその掉尾の鯛がおかれているのは、福の神恵比寿の膝ならぬ、あれや海女の膝の間なのである。膝の間とはそこから真に新たなものが産みだされ、生れてくる無辜の場である。生の苦悩と救済、あるいは明朗と混沌とはこの句では肉体ぐるみに統合され、創造的表現にもたらされている。悲劇をさらに乗り超えてむしろ天真の神聖喜劇を、いや、さながらに天鈿女の笑いのごとき神話的喜劇を目出度く達成している。(横澤放川)